ラヴェルと日本①導入編

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私とラヴェル

フランスの作曲家M.ラヴェル(1875-1937)は日本にもファンが多い。ショパン程ではなさそうだが、プロとしてクラシック音楽を弾く人も、趣味で聴くのが好きと言う人も、日本人はラヴェル好きが多い印象である。

私が13-14歳くらいの頃、ピアノのレッスンの帰りに住んでいた区で一番大きな図書館に寄るのが生き甲斐だった。本だけでなくCDも借りれることに気づいてからは、様々なクラシック音楽のCDを借り漁っては、お年玉で溜めてやっとの思いで買ったiPodに入れ、何度も何度も聴いていた。その中には、アンドレ・クリュイスタンスのラヴェルのアルバム全ても含まれていた。

私が初めて弾いたラヴェル作品(桐朋の授業で初見したプレリュードを除く)は、中学一年生か二年生の頃に弾いた水の戯れだった。今はもうなくなってしまった、横浜国際コンクールでラヴェル賞、をいただいたことを覚えている。

高校生になってからは憧れのスカルボを勉強した。桐朋の卒業演奏会やアムステルダム音楽院の入学試験でも弾き、その後はオンディーヌ、絞首台と共にコンクールで弾いたりと、夜のガスパールは私にとって大変思い入れの深い曲だ。

そんな私が音楽院の学部3年目の時の宿題で、ラヴェルがどの程度バスク人だったのかについての小論を書くことになった。生まれて初めて、ラヴェルについて書かれたアカデミックな本(英語)を手に取り、読み進めていると、なんと『ラヴェルの家の玄関は浮世絵がたくさん飾ってあり、庭は日本庭園風で、日本やアジアの国々のものを集めた部屋まであった』と書いてあるではないか。自分(日本人)と、ラヴェル(憧れの存在)の間にひっそりと存在していた繋がりを発見し、大変感動したことを己得ている。

ラヴェルとジャポニスム?

さて、我々日本人はラヴェルの芸術性に感動し研究をするが、ラヴェルも日本の芸術に関心を持ち積極的に理解しようとしていたという事実が精査され、語られることは殆ど無いのである。なぜだろうか?

ラヴェルの生まれた頃には既にホイッスラーやモネ、ゴッホらによってジャポニスムはパリの芸術界を席巻していた。ラヴェルと同年代のフランスの作曲家、ドビュッシーの管弦楽曲 La Mer (海, 1904)の初版に北斎の神奈川沖浪裏の波のイラストが使われた話は有名である。この時代背景だけを考えれば、ラヴェルが日本に興味を持ってもおかしくないという結論は容易に出るのだが、何せ彼の作品の中には一つも日本を示唆する題名が付いたものが無い。このことが原因で、殆ど誰もラヴェルと日本の関係には言及しないし、寧ろ両者に何も関係が無いと思っている人の方が多いと思う。

私の修論の内容をざっくりと

「それなら人生の半分くらいはラヴェルを聴いてきた私が、どのくらいラヴェルが日本のことを知っていたか、ついでに彼の作品に日本が影響したか否かを調査したら楽しいのではないか」と思い、音楽院の修士課程で研究をすることに決めたのである。このブログシリーズ「ラヴェルと日本」では、私の行った研究の結果と、色々な余談をあまりアカデミックにならない感じで気軽に書いていこうと思っている。

私の研究では、ラヴェルと日本の関係を洗い出し、彼が読んでいたと思われる日本の芸術に関する書籍、晩年までの16年を過ごした家にある浮世絵の数々、更には彼と1920年代に最も親しかったとされる薩摩治郎八との関係や、ラヴェルが日本の音楽に触れた体験等の歴史的証拠を元に、ラヴェルが我々の既知の事実以上に日本の芸術に興味があったこと、そして単に時代の流行に乗っかるのではなく日本の芸術に深い関心があり、ジャポニスムの終焉、そして第一次世界大戦後の1920年代にも日本の芸術に心を引かれていたことを明らかにした。

ここまで読んでみて、研究の内容が気になるよっていう方が多いことを願いながら、第一回目はここで一先ず終わりにしようと思う。

特別コーナー:私のお気に入りのラヴェル作品

毎回記事の最後に、私の好きなラヴェルの録音を貼って、好きな理由を超簡潔に説明します。今回はヤンソンスとコンセルトヘボウのラ・ヴァルスです。隅々まで丁寧に全ての声部が聴こえてくるところが好きです。他の録音で聴こえてこなかったことが聴こえてくるので、何回聴いてもとても新鮮。テンポも心地が良い。あとは、RCOなのでオランダに6年住んでいる私的には馴染みが深い&師匠のブロンズ先生のおススメの録音でもある、ってところでしょうか。

ラヴェルと日本シリーズ

①導入編

②ラヴェルの友人、D.E.アンゲルブレシュト 

③ラヴェルの友人、ストラヴィンスキー 

④ラヴェルの友人、モーリス・ドラージュ 

⑤ラヴェルと3つのFoxtrot 

⑥ラヴェルの家の日本画コレクション 

⑦ラヴェルの聴いた日本の音楽