ラヴェルと日本⑥ラヴェルの家の日本画コレクション
自分の死後、自宅がミュージアムとなり不特定多数の人間が世界中から訪れ、部屋の隅々まで覗いていく、なんてことになったらどうだろう。フランスのモンフォール・ラモリ―にあるラヴェルが晩年の16年を過ごした家は、丁寧な管理の下で現在もミュージアムとして保存されている。今回は私が2019年の2月にラヴェル宅を訪れた時の話、そしてラヴェル宅の日本画の画像とその画家と作品名の特定(一部特定できなかった作品の画像もある)、さらには音楽の『解釈』のされ方について私の思うところなどを書いていく。(今回結構長めです)
目次
モーリス・ラヴェル博物館に将来的に行く人は絶対これを読んでください
①ラヴェルの日本画コレクション(特定済みの日本画)
②ラヴェルの日本画コレクション(特定できなかった日本画)
結論1
日本画がたくさんラヴェルの家にあった。だから何なの?
結論2
今日のラヴェル(以上を踏まえて、他の人の『解釈』について一言
モーリス・ラヴェル博物館に将来的に行く人は絶対これを読んでください
行く予定の無い人、または忙しいから何の浮世絵をラヴェルが所持していたかだけ知りたい方はどうぞ飛ばしてください。
ここでは、実用的なラヴェル博物館訪問に関する情報を幾つか挙げておこうと思う。まず、私が訪れた2019年2月現在は訪問には予約が必要だった。(フランスだから)メールをしても返事が来るかわからないし、(フランスだから)英語しかできない私が電話をしたところで相手にしてもらえるかわからないし、結局フランス人ピアニストの友人に電話で予約を取ってもらった。その友人曰く、「アルゲリッチがラヴェル博物館を訪れた際に、本当は弾いていいはずのラヴェルのピアノを彼女が弾いたら、その時ラヴェルの家にいたモンフォールの市長さんか誰かが『何で勝手にピアノを弾いているんだ!警察を呼ぶぞ!』と警察沙汰にしたらしく、それで博物館が閉まりかけた...」とか何とからしく、以前色々なゴタゴタがあり、予約なしで普通に行っても入れてもらえない、みたいなことを聞いた(アルゲリッチの話は私の記憶も細部まで信用できないし、他の話も聞いたことがあるので話半分に読んでください。)詰まるところは、行きたい方は予約が必要かどうか、必ず確認を取ってください。
最寄り駅のMontfort-l'Amaury Méré駅に着いてからは、同行してくれた例のフランス人の友人が電話でUberを呼んでくれるはずだった。しかし、その日は土曜日で、彼が電話をした近くにいるUber3台全部に「土曜日にそんなところまで車を出すのは嫌だ」と言われて、断られてしまったのである。仕方がないので、泣く泣く以下の道(殆どの部分が自動車道)を私とフランス人と私の夫(当時の婚約者)の三人で50分も歩くこととなった...(Googleマップには44分と書いてあるが、途中で休んだり道を確認していたら結局50分はかかった。)
見ての通りのほぼ直線なので、天気が良くて歩くのが好きな人はMontfort-l'Amaury Méré駅から歩いてみてもいいかもしれない。実のところ、3人で喋りながらフランスの田舎チックなところを散歩(と言ってもビュンビュンと車がすぐ横を走っていたのだが)するのは結構楽しかった。因みに、帰りはちゃんとバスを乗り継いで、他の駅から電車を捕まえました。休日にラヴェル博物館に行こう!と考えている人は、Uberやタクシーが捕まらないかもしれないことを、頭の片隅に入れておいてください。
さて、無事にラヴェルの家に着いて「さあ!!見たもの全てを写真に収めるぞ!!」とiPhone片手に意気込んでいたのも束の間、直ぐに「ダメダメ、中は写真禁止です!」と言われてしまい、一枚も写真は撮らせてもらえなかった。修論のために来たんです!研究に必要なんです!とフランス人がフランス語で粘ってくれたが、それでもガイドさんに頑なにNonと拒否されてしまった。ただ、外観とバルコニーからの眺めは写真可なので、そこはバッチリ撮ってきた。
さらに、ガイドさんは(予想通り)フランス語でしかガイドができないそうで、説明は一切その場で理解ができなかった。フランス人の友人が後で色々教えてくれたり、フランス語がちょっとわかる夫が耳元でコソコソ通訳してくれる程度にしか家の説明の内容はわからず、そこも残念だった...(まあフランスだから仕方ないのだけど。)
① ラヴェルの日本画コレクション(特定済みの日本画)
以下はラヴェルの家の中を紹介しているwebサイト内のページから、日本画と思われる画像を拡大し、複数の画像検索サイトで検索をかけて行った特定の結果である。
②ラヴェルの日本画コレクション(特定できなかった日本画)
ここからは、画像検索を複数のサイトを使ってかけてみたものの、名前と画家の両方がわからず、特定ができなかったラヴェルのコレクションを見ていく。
結論1
ラヴェルが所持していた日本画の数(特定済み・特定不可を含む、ラヴェルの家の中が見れるwebサイトで日本画と確認できたものの数): 17
部屋に数枚インテリア程度に飾ってあるならまだしも、文字通りそこら中に日本画が飾ってあったことから考えても、ラヴェルの日本画への興味は相当なものだったと思われる。
日本画がたくさんラヴェルの家にあった。だから何なの?
それで、ラヴェルの作品には影響したの?と思った人もいると思う。この問いに答えるためにも、私の研究のコンセプトについて少し説明してみようと思う。
修論を書いている時に、他の研究者が私と同じようにラヴェルと日本の芸術をテーマに書いた論文を見つけたので読んだことがある。どちらかと言えばその論文は、ラヴェルの音楽を日本の芸術を用いて『解釈する』という内容のものであった。内容をとてもざっくりまとめると、ラヴェルの音楽に見られる精密さを日本の芸術に見られるそれとの共通点であるとし、その研究者が作った音楽用語を用いたり、(私から言わせれば歴史的事実の精査を行わず)ランダムに選んだ日本画に線や丸を描いて「ほら、この線がまるでラヴェルのこの曲のこの音型みたいでしょ!」と主張することによって、論文内で自身の『解釈』を説明しているのである。
私としては衝撃的な内容の論文だったので、思わず指導教官に「こんなことが許されるのなら、何だって『解釈』次第で何とでも説明ができるではないか!」と机を叩いて抗議した。すると私の指導教官の返答もこれまた衝撃的で、
「あのね、例えばボードレールの詩に俳句の影響があったんじゃないか、と考えるなら、そこに歴史的事実があまり無くても「ボードレールのこの間の取り方が云々、まるで俳句的」みたいな『解釈』で論文を書くことだってできるんだよ。そして、この研究者はこのテーマの論文で博士号を取ったってことは、これが書かれた時は『ラヴェルの音楽を日本の芸術を使って説明する』トピックが人気があったのかもね。皆が聞きたいことなら研究させてもらえるし。それに、君みたいに科学的なアプローチを取って『証明』だの『証拠不十分で証明されない』だのやっていたら、人文系の論文の半分は意味のないものになってしまう。」
と言うのである。(うちの音大は十数年前からいきなり修論を生徒に書かせ始めたので全くアカデミックの権威でも何でもないし、元々実技やってなんぼの学校なので、アカデミックなことをさせようとしたところで上手くいくはずもないのだが...私の科学者の夫がこの話を聞いて憤慨していたのは想像に難くない。)
私の論文のコンセプトでもあり、指導教官も言っていた『科学的アプローチ』についてここで説明したいと思う。今回『ラヴェルの作品が日本の芸術に影響されていたかどうか』を研究する上で、まずはラヴェルと日本の関係を考えられる限り全て洗い出した。つまり、歴史的事実を漏れなく探し出すところから始めたのである。そして、歴史的事実は状況証拠(ラヴェルの友人たちやラヴェルの置かれた環境など、直接的な証拠でないもの)と、直接証拠(日記や手紙、証言や手記等の一次資料)の2種類に分けた。集めた歴史的事実からこの研究の解明課題に答えを出すために、アメリカの民事訴訟で用いられる考え方"preponderance of evidence"(証拠の優越)を採用し、例えたくさんの直接証拠が出てこなくても、「ないよりはある」と言える状況証拠が数多く出てくれば「ラヴェルの作品は日本の芸術に影響されていた」と判断することにした。さらに、歴史的事実を集めている課程で、もし日本の芸術に影響されたと言えそうな作品が出てきた場合は、歴史的事実を集め終わった後に、どのように(音楽以外の芸術を音楽の解釈に用いて説明するのは大変難しい為)日本の芸術に影響を受けたかを分析するかを考えるつもりだった(結果的に、今回の研究では一曲も可能性の有りそうな曲は出てこなかった。)
結論2
このアプローチを取らずに、都合よく『解釈』を用いて論文を書いてしまい「ほら見て、ラヴェルのこの曲は日本画のこれと...」と結論づけてしまうのは余りに幼稚である。それが許されるのであれば、「ラヴェル作品『鏡』の『洋上の小船』は丁度北斎の神奈川沖浪裏がパリで流行ってた頃の作品だし、きっとこの曲は北斎からインスパイアされたんだ!」みたいなトンデモ理論だって言えることになってしまう。
17枚もの日本画をこのページに載せたが、その日本画がラヴェルの音楽に如何ほどにでも影響したという歴史的な証拠が出てこない限り、私はそれらの日本画を自分の『解釈』に使いラヴェルを語る気は全く無い。なぜなら、日本画から影響された曲が「ないよりはある」とは今回の研究からは言い切れないと私は考えているからだ。(全体的な研究がどのように結論を出したかについては、後々書きます。)今でもたくさんの日本画が彼の家には飾られているが、本人や友人らがそれと彼の作品との関係性について言及した証拠は、まだ何も見つかっていない。
そもそも、音楽以外の芸術を音楽の分析や解釈に用いるのは大変難しく、抽象的な作業であると思う。しかし、歴史的事実に重きをおかず、受け取る側の勝手で『解釈』をすることを是としてしまうと、私の指導教官の言うように「人文系の論文の半分」がナンセンスになってしまうだろう。ナンセンスなアプローチを取って天才の作品を語るのは、作品にも作曲家にも失礼である。人文系の論文の半分が本当にナンセンスかどうかは私にはわからないが、そうであって欲しくはないと切実に願っている。
特別コーナー:私のお気に入りのラヴェル作品(&以上を踏まえて、他の人の『解釈』に関して一言)
Googleの検索画面に『ラヴェル 鏡 解説』と打ってみて欲しい。一番上に出てくるページがあるのだが、その解説が読み物として面白い。
私はラヴェルを心底敬愛しているので、歴史的事実の確認の取れない事柄をベースに推定したものは全て読み物として楽しんでいる。恐らく自分で演奏会のプログラムノートを上手に書けない音大生なんかが『ラヴェル 鏡 解説』なんて検索をかけるんだろうけど、ネットに載っている情報を全て鵜呑みにして、自分の演奏会に来てくださるお客さんに創作か事実かわからない情報を流すのは無責任だと私は思う。ここに、私が納得のいかなかった解説を一例として、どうして書かれてあること全てを鵜呑みにすべきでないのかの説明をしようと思う。
今回のブログではラヴェルの日本画コレクションについて掘り下げたが、その中には富岳三十六景の神奈川沖浪裏は確認されず、それどころか海の上に小船が浮かんでいるような絵も一枚も無かった(しかしこのコレクションは1921年以降にラヴェルが所持していたものであり、鏡の描かれた時点でラヴェルが日本画をコレクションしていたか否か、またコレクションの内容については不明である。)例の解説ページの『洋上の小船』のところを読んで頂ければ判ると思うのだが、この筆者はラヴェルが北斎の富岳三十六景の神奈川沖浪裏をイメージして作曲し、当時のフランスの浮世絵ブームを考えれば、この曲が献呈された画家のポール・ソルドも当然神奈川沖浪裏を知っていただろうから、もしかしたらラヴェルにこの北斎の絵を紹介したのでは、と推測することはできる。ただ他の部分も含め、この方の推測があまりに凝っている為、この文章を読んで実際に「これはそういう曲だと読みました」と、あたかも書かれていることが事実であるかのように私に話してくる人が、実際に数名いたのである。
ポール・ソルドという画家だが、アパッシュのメンバーの中では驚くほど情報が少ない。色んな手を使って探してみたり、美術史の先生に聞いたりしてみたのだが、殆ど何も出てこなかった。例の解説サイトの説が正しいと証明したいのなら、ポール・ソルドの子孫(もしいるのであれば)を探し出し、ソルドについて直接インタビューするしかない、と私は思った。事実、ソルドの生まれたところを探し出して、戸籍謄本が残っていないか聞いて、そこから子孫がいないか突き止めようか、などと色々考えたのだが、2年弱しかない修士課程でそこまでするのは時間が無いと思い諦めてしまったので、つまり本当にソルドが浮世絵に興味があったかはわからない。
鏡が作曲されたのは1905年だが、ラヴェルと日本画のコレクションに関する私が探し出した最も古い情報は1911年のもので、ラヴェルの友人ロラン・マニュエルの証言によると、当時のラヴェルの住んでいたアパートには2枚の日本画が飾ってあったそうだ*¹*²*³。しかし、1905年の鏡が作曲された時点で、ラヴェル自身がどの程度、日本画に興味があったかは未知数である。
さらに、ドビュッシーの交響詩『海』の初版の表紙に北斎の神奈川沖浪裏のイラストが描かれているので、ドビュッシーが北斎の海からインスパイアされて作曲した、とそのページでは断言されているが、それも非常に疑わしい。そもそもジャポニスムはファッションみたいなところもあり(表面的でエキゾチックな部分だけの興味から転じたものをジャポネズリー、それを経て日本の芸術への深い理解へと昇華したものをジャポニスム、とする考え方もある)、絵画より大分遅れた1900年代に音楽界に現れたジャポニスムが、どのくらいドビュッシーの中で消化され、音楽に活かされ得たかは疑問である。結局ドビュッシーが如何ほどにまで北斎の海を意識したかは(私の知る限り)一次資料が出てこないので全くわからない。ただカッコいいから、流行っていたから、あのイラストを使った可能性も否めない。
兎に角、そのページの解説文を最初から最後まで鵜呑みにし、あたかもそれが事実であるかのように信じてしまう人が少なからずいるのではないか、と心配したので、ここで少し警鐘を鳴らしておこうと思ったわけである。洋上の小船が神奈川沖浪裏をイメージされて作曲されたかどうなのかは、状況証拠も不十分であるし、勿論直接証拠も出てきていないことから、あくまでも推測の域を出ない。書いた方も「あくまで解釈」「推測」だと言っている。あまりに目新しい考え方で、「そうだったら良いのにな」と日本人なら思ってしまいがちであるが、今後こういった解説文を読む時は、誰がどのようなリサーチをして書いたものなのか、どのくらい信用できるのか、『解釈』なのか歴史的事実に基づいた情報なのか、納得してしまう前にもう一度考えてみて欲しい。
というわけで、今回紹介するラヴェル作品は『洋上の小船』を選んだ。これは完全に私の好みだが、『鏡』はオーケストラ版の美しさが別世界レベルなので、オケ版を聴いてからは誰のピアノ演奏を聴いても物足りず、少し困っていたりする。
かなーり長い今回の投稿だったが、次はラヴェルと日本の音楽について書こうと思う。
*¹参照:Ravel Remembered: Nichols, Roger. 1987. p. 141
*²ラヴェルがモンフォールの家に引っ越したのが1921年のことなので、確認された2枚の日本画コレクション(1911)から10年後にもコレクションを続けていたことが伺える。彼の人生のある一部分で、継続的に日本の芸術に興味があったのではないか?
*³1911年と言えば、ラヴェルと日本②で出てきたアパッシュのメンバーであるアンゲルブレシュトの日本にインスパイアされた作品の初演の2年後、そしてラヴェルと日本④で出てきたドラージュが丁度日本に行っていた頃(1911-1912にかけて彼は日本を訪れていた)でもある。因みにこの時ラヴェルは36歳であった。
ラヴェルと日本シリーズ