暗譜を限りなく完璧にする練習方法

私はピアノを22年弾いてきましたが、高校生の頃からずっと暗譜が怖くて仕方がありません。最近は舞台に立つ際に必ずその日弾く楽譜の山を抱えて、でもその楽譜たちを開くことは無く、ただ自分の横の椅子なり楽譜立ての上にただ置いたりしています。お守り代わりに、実際には使わないのに楽譜を抱えないと舞台に上がることができないくらいに、暗譜が怖いのです。事実、私は大きな舞台で暗譜を飛ばしたことは殆どないにも関わらず、このように心配性を拗らせています。(2023年5月に追記:最近は楽譜を見ないのに譜面台に置いて弾くことはしないようになりました。)

リヒテルのように、「暗譜なんかする時間があれば、いかに良い音楽をするかに時間を割いた方が余程いい!」などと言ってのけるほどの地位と名声があればいいのですが、そういう訳にもいきません。『暗譜』という慣習を作ったリスト?クララ・シューマン?を毎日ひたすら恨むばかりです。

しかし、人のせいにしていても仕方が無いので、暗譜を少しでも楽にする方法を自分で(一部学部時代の教授と一緒に)10つ生み出しました。試行錯誤して、色んな失敗や冷や汗をかく経験を舞台でしてきたからこそ、今は少しずつ暗譜恐怖症を克服しつつあります。

もう10年近く前、高校の時の先生に言われた言葉を今でも覚えています。「あなたの中には『暗譜怖いお化け』がいて、あなたは要らない心配をすることによってそのお化けに餌を与えて、どんどん成長させている。」

以下の内容が少しでも多くの『暗譜怖いお化け』と闘っている人たちに届けば幸いです。


❶左手をとにかくたくさん練習する

私の学部時代の教授、ブロンズ先生(50年近く音楽院でピアノを教え、数々のコンクールの審査員をされ、今年84歳になられるのに物凄く元気にピアニストとしても活動されている)はいつも

「暗譜が飛ぶのは大抵左手。レッスンで生徒に『左手だけ最初から弾いてみて』と言うと、暗譜で最後まで弾けない人が多い。つまり、普段左手を聴いてない人が多いということ。左手の和声に耳を傾けて練習しておかないと暗譜が飛びやすくなります。」

とおっしゃっています。確かに私も舞台の上で、緊張が極限状態だと「あれ?左手って次の小節どこに飛ぶんだっけ...?」とヒヤっとすることがありましたし、他のピアニストや自分の生徒さんが暗譜を飛ばしているのを聴くと、本当に左手が多いです。普段右手ばかりを聴いて練習している人は非常に多いでしょうし、そもそも右利きの人も多いので右手ばかりに意識がいってしまうのは仕方がないのですが、普段から意識して左手を聴きながら練習することが大切です。左手の和声やベースのラインで音楽を支え、立体的に聴こえるようにするという面でも、左手を聴くことは重要です。

❷手がポジション移動するところは特に『舞台上で』暗譜が飛びやすい

頭が真っ白になって、急に暗譜が飛ぶやつがコレです。まずは、寝てても目を瞑っていても、全然違う事を考えながらでもポジション移動ができるように、何度も練習して筋肉に叩き込みます。それを補強するように今度は頭を使ってロジックで覚える(私は数字に結びつけて覚える、例えば『4度飛ぶ』とか『1オクターブと半音上に着地』とか。これは後に出てくる❹にも繋がります。)ここで言うポジション移動は、1オクターブ以上のジャンプです。

例えばベートーヴェンの告別ソナタの3楽章は自然な手のポジション移動が多いのですが、それで気持ちよく弾いていると、突然この部分で暗譜が飛びかけたことが過去にありました。

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右手左手同時にドから、次のレ♭とG♭ MajorのⅠの和音に飛ぶ(和音自体はG♭ MajorのⅠの和音ですが、この部分の調をあえて言うとすればD♭ Majorのような気もします)、この部分で調性も手の場所も大きく移動します。割とショッキングな転調なので、まさかこんなところで暗譜を飛ばすわけがなかろう、と練習中には思っていたのですが、一度本番でどこに飛ぶのか分からなくなってしまいかなりヒヤっとした経験があります。この部分の場合、ドの音を弾きながら「次は一オクターブと半音上」と念じながら弾く練習をたくさんしました。私は一々「何調から何調に転調…」などと考えている余裕はない(この部分以外でもそういう頭を使う余裕はない人間です)ので、自分なりのコマンドを考え、それを練習中に何度も復唱することで、前回の本番では無事に暗譜を飛ばさないで弾くことができました。知っている曲でも、一度手が飛ぶところを虱潰しに確認する作業は必要だと思います。

❸脳内再生練習は裏切らない

楽譜無しでピアノの蓋の上で指を動かして一曲弾き切る練習→楽譜無しで指を一切動かさずに一曲脳内で弾き切る練習(脳内再生練習)はかなり効果があります。脳内再生練習は歩いている時、入浴中、寝る前、どこでも手軽にできるからオススメです。ただ私の場合ですが、本番前で追い込まれている時は暇さえあれば何度もやってしまうので、1日2回までなどと決めた方が精神衛生的にも良いかもしれません。

楽譜無しで指も動かさず、じっと集中して『最後まで』弾き切るのは想像以上に難しいです。ふとすると他のことを考えたり、脳内再生が途中で終わっているのに気づかず別のことをしていたりします。なのでかなりの精神力が必要ですが、個人的にはこれが一番勇気づけられる練習方法です。あと、不安で夜寝れなくて「まだ練習した方がいいのではないか」と追い詰められている時にこれをすると、すぐに入眠できます。ただ、私だけかもしれませんが、夢の中でもバリバリ練習してしまうキッカケにもなってしまうので気を付けてください。(余談ですが、私はよく夢の中で練習したり、夢の中で次に弾きたい曲の暗示を受けたりします。でも起きている時も練習しているので、結局心が休まる時が無くて本番前は大変です…)

❹自分なりの規則を作り出す

現代曲みたいな規則性に乏しい曲の暗譜は、基本的には体で覚えつつ、積極的に音の名前を楽譜に書き込んだり、音程(和音なら左手の親指から右手の親指の間の音程)を書き込んで視覚的にも暗譜に取り組むのがお勧めです。規則を自分で無理矢理作り出す+それを楽譜に書きこむ→その楽譜の写真を覚える感じで、楽譜を絵の様に捉えて記憶します。以下の写真は、三善晃先生のEn Versをコンクールで弾いた時の書き込みです。

音の名前もガンガン書き込みます。同じ小節に同じ色の付箋を貼ったりもします。

音の名前もガンガン書き込みます。同じ小節に同じ色の付箋を貼ったりもします。

文字も大きく書き込みます。

文字も大きく書き込みます。

ここは手の移動が多いので、右手と左手が何度離れているかという数字を覚え、そこから正しい音を導き出すために「4度」と書いてあります。

ここは手の移動が多いので、右手と左手が何度離れているかという数字を覚え、そこから正しい音を導き出すために「4度」と書いてあります。

もしくは、前後の音との繋がりを自分なりに言葉にして、その言葉を脳内に思い浮かべると正しい音が見つけられるように言葉と音をリンクさせる練習をします。先ほど❷で書いた、コマンドを作るのと一緒です。

例えば和音で、右手の音が全て黒鍵、左手の音が全て白鍵の場合は、右手の音の横に「黒」、左手の音の横に「白」など色をメモしてそれを見ながら練習するだけでもだいぶ頭に入ります。下の写真も、同じく三善先生のEn Versの一部です。

白・黒など書いてあるのは、白鍵しかない和音なのか、黒鍵しかない和音なのか、ということです。

白・黒など書いてあるのは、白鍵しかない和音なのか、黒鍵しかない和音なのか、ということです。

こちらが上で紹介した三善先生の曲の、私のコンクールの時の録音です。暗譜で弾きました。

普段意識せずに弾いているところが、本番で暗譜が飛ぶところだと言えるかもしれません。一音一音大事に弾き、何をどんな風に弾いているのかいつもの練習で自覚があれば、飛ばす確率は低くなると思います。規則を作りだしたり、コマンドを作ったりするのも、普段注意ができていないところに注意を向ける、という効果があります。

❺過去の自分の演奏を分析する

一度でも練習・レッスン・演奏会などで暗譜が飛んだところはまた飛ぶ可能性があります。暗譜ミスは逆に言ったら大チャンス、未来の自分に今の自分が警告してくれていると考えて、一度飛んだところは二度と飛ばさないように重点的に練習することが必要不可欠です。一度舞台上でヒヤっとした箇所も同じで、今後暗譜が飛ぶ可能性がある場所だと認識し、何度も練習します。生えかけの雑草は根元から引き抜く感じです。例え練習中に一度だけ間違えたところでも、何度も何度も暗譜の確認を(特に❸の練習)するべきです。

ただ、いざ舞台に立った状態で「あそこは以前も間違えたし、今からまた間違えるのではないか...」と考えだすと、『また間違える』という自己暗示をかけているようなものです。舞台上では今までの失敗は忘れて、あれだけ試行錯誤したから『今回は大丈夫!』と強く信じ込み、心配することに時間を費やさないことが大切です。

❻舞台環境もイメージトレーニングする

本番で音の響き方や鍵盤の重さ、照明が違うと、混乱して暗譜が飛ぶ事もあります。私の場合は、高校に入るまでのピアノの練習は自宅のアップライトピアノだったのですが、コンクールでグランドピアノを弾いた時に、ピアノメーカーのロゴが印刷されている部分(下の写真を参照)に自分の手が反射しているのを見て、演奏中なのにビックリして混乱、緊張してしまったことを覚えています。

グランドピアノ.jpg

いつも艶の無いグランドピアノを弾いている方や、アップライトピアノで練習している方は、予期しないところで普段との違いを感じてしまい、それがミスタッチや暗譜が飛ぶことに繋がる可能性があるということなので要注意です。予想していなかった『普段と違う事』は緊張を産み出し、緊張は体を強張らせ、それが結果的にはミスタッチや暗譜飛びに繋がります。

ですので、普段からできる限り色んなピアノ・場所で弾いておき、❸の脳内再生練習の時に実際の本番の場所で弾いている想像をすることがとても大切です。例えば私の場合、演奏会場の内装を必ず何週間か前にGoogleの画像検索で調べて、そこで自分があたかも弾いているようなイメージで❸の脳内再生練習をしたりします。イメトレ、とっても大事です。

❼音楽に没頭する

結局音楽に没頭して演奏している時は暗譜のことは気にならないし、散々練習しておいた本番ではもしヒヤっとする事があっても、なんとか体が覚えていて乗り越えられる/誤魔化せることが多いです。音楽のこと<暗譜の恐怖、になると暗譜が飛びやすくなるので、本番前はなるべく暗譜のことは忘れて、良い音楽を作ろうというムードに切り替えることも大事です。聴いてる方も、機械演奏みたいにつまらないけど暗譜の飛ばない演奏と、すごく面白いけど暗譜が飛んでしまった演奏なら、後者の方が好きなはず!

❽誰でも暗譜が飛ぶ可能性はあるので本番直前はポジティブでいる

結局我々は人間、どれだけ入念に準備をしても、機械じゃ無いので100%の正確さは手に入れられません。ブロンズ先生が以前ポリーニの演奏会をコンセルトヘボウで聴いた時に、ポリーニはリストのソナタの暗譜を一部飛ばしてしまったそうです。暗譜が飛ぶ時は誰でも飛びます。現にポリーニ以外にも色んな名演奏家も暗譜を飛ばしていますし、暗譜に恐怖している巨匠も実は多いのかもしれません。「自分だけじゃない、人類共通の難題だ」と深く考え過ぎたり追い込み過ぎず、ポジティブでいるよう努力すること(特に本番直前)が大事だと思います。

❾本番前に楽譜を凝視しない

私の場合は、本番前に楽譜を凝視し過ぎない方が暗譜が怖くならなかったりします。本番前に楽譜を見てると「あれ、ここってこんな指番号だっけ…」みたいに色々普段疑わないことが不思議に思えてくることが非常に多いです。これは人によるかもしれませんが。以前ショパンのファンタジーを弾く直前に楽譜を凝視しすぎた結果、本番直前なので控室でピアノで音を出して指番号や和音を確かめることもできず、結局モヤモヤしたまま舞台に上がったら見事その部分が全く弾けなかったことがありました。それ以来、本番前は楽譜を見ないでひたすら❸の脳内再生をするか、思いつめないように散歩したり昼寝したりすることにしています。

❿もし暗譜が怖くなっても『即興で乗り切る』と自分に暗示をかける

ブロンズ先生は、「プロとアマの違いは、プロは暗譜が飛んでも即興するなりしてその場を乗り越えられること。暗譜が飛んでもその曲のことを隅から隅まで知っているような人間以外には、それが伝わらないようにできるのがプロ。」とおっしゃっていました。

曲の全体像が頭に入っていて、以上❶から❾までをちゃんとやった人は、多分殆どの確率で暗譜が飛んでしまうことはないと私は思っていますが、技術的なところを完璧にしても、精神面で追い詰められているとできることもできなくなってしまいます。やることはやったんだから、もし何か起きても私は即興で乗り切る!、と私は本番1週間前くらいから自分に暗示をかけています。

効果の無かった暗譜克服法

高校生の時にベートーヴェンの作品101を試験で弾かなければならず、あまりにも暗譜が怖かったので「もし暗譜が完璧にできていたら、目の前の真っ新な五線紙に全て楽譜を見なくても音を書き記すことができるだろう」と考え、実際にやってみました。これは思ったより時間を費やすのと(ベートーヴェンのそのソナタも短い曲ではありませんが、何十分もある演奏会のプログラムを一々毎回本番前に楽譜に書き起こしていたら、いくら時間があっても足りません)、案外書けないところが多くて、それが返ってネガティブ思考を強めて絶望的に感じてしまう原因にもなりました。なのでこの方法はお勧めできません。

補足とまとめ

主に技術面・精神面について書いてきましたが、勿論、当日履く靴や着る衣装、楽譜立てを立てるか立てないか、楽譜立て自体を取り除くか取り除かないか、さらにはピアノの蓋を開けるかどうか、床がカーペットか否か、等の環境的な変化で、弾きやすさや音の鳴り方が変わってきます。そしてそのような変化が悪い緊張の原因になることもあります。無駄な緊張はミスタッチや暗譜を飛ばす原因になるので、これらの環境面での普段との違いもなるべく最小限になるよう、いつもの練習に組み込んでおくべきです。

さて、たくさん練習したのにまだ暗譜が怖い人は、暗譜怖いお化けの奴隷となっているからです。そんな時は技術的な部分(筋肉に覚えさせたり、規則を作ったり、コマンドを出したり)の強化も大事ですが、一旦楽器から離れて、精神的な恐怖と向き合うことも大切です。お化けに餌やりをするのを止めないで、爆発しそうな恐怖のまま舞台に向かっても良い結果になりません。少なくとも本番1週間以上前に、暗譜が怖い理由は何なのか、練習で解決するのか、それとも練習はもう充分したのに怖いのか、原因を見つけて上記10の方法で対処してみてください。