ラヴェルと日本⑦ラヴェルが聴いた日本の音楽

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第6回目までの記事では、ラヴェルと日本の関係を彼の周りにいた作曲家や友人、さらにはラヴェルの所持していた浮世絵などから紐解いていった。今回はついに、ラヴェルが聴いた日本の音楽について書いていこう。

目次

  • ラヴェルと三味線

  • 14歳のラヴェル少年は日本の音楽を聴いたことがあった?

  • 結論(ラヴェルと日本シリーズの結論)

  • 今日のラヴェル・ピアノ協奏曲ト長調とアルゲリッチ批判、そしてラヴェルの作風について雑談

ラヴェルと三味線

これは全く知られていないのだが、ラヴェルは1925年頃に杵屋佐吉さんの長唄を聴いている。以下は昭和50年1月30日発行の音楽之友社の『素顔の巨匠たち』の中での薩摩治郎八へのインタビュー記事からの抜粋である。

― さっき嫌いな作曲家が出てきましたけれども、逆はどうですか、どういう作曲家が好きだったんでしょうか、ラヴェルは。
薩摩 日本の長唄は好きだった。よく知っていましたよ、日本の音楽のことは。三味線の杵屋佐吉がパリに来たときに、自分のためにやってもらいたいって申し込んできた、ラヴェルが。それでジルマルシェックスのうちに杵屋を招びましてね。それでもって聴かせたんですよ。
― そのとき薩摩さんもいらっしゃいましたか。
薩摩 もちろん行きました。ジルマルシェックスのうちの小さなサロンでね。でも何を弾いたか覚えちゃおらん。一生懸命に、ラヴェルは喜んで聴いていましたよ。

シリーズ第5回目にも登場した薩摩治郎八だが、自身の著書『せ・し・ぼん』の中で以下のように書いている、と『Confronting Stravinsky』(Jann Pasler,1986) 内の船山隆氏の書いた章 "Three Japanese Lyrics and Japonisme"の中で引用されている。こちらの方が『素顔の巨匠たち』でのインタビューよりも少しだけ詳しい内容となっている。

I immediately consulted Ravel and Delage and decided to hold a welcoming party for Sakichi and his wife at the home of the pianist Gil-Marchex. Sakichi performed on a red blanket surrounded by a golden folding screen. Ravel and Delage were enthralled by the performance. (私の勝手な訳)私はすぐにラヴェルとドラージュの話を聞き、ピアニストのジルマルシェックスの家で杵屋佐吉とその奥さんのためにウェルカム・パーティーをすることに決めました。佐吉は金色の折り畳み式の戸に囲まれた赤いブランケットの上で演奏してくれました。ラヴェルとドラージュは佐吉の演奏にうっとりしていましたよ。

薩摩側の証言は上の2つのように出てくるのだが、ラヴェルやドラージュがこの演奏会について話している手紙や手記を私はまだ見つけていない(...が、ラヴェルの文献に関しては未発表ものが定期的に雑誌として出版されているので、既にその中でこの演奏会についてのラヴェル側の手記が発表されている可能性も無いとは言えない。フランス語の雑誌なので私はまだ読めずにいるのだが...)

幸運にもラヴェルやドラージュの前で演奏する機会があった「杵屋佐吉」さんは江戸時代から続く長唄三味線方の名跡で、パリに行ったのは四代目の杵屋佐吉さんである。Wikipediaには「大正15年から昭和元年(1926年)にかけて、文部省嘱託としてヨーロッパ各国における音楽作曲に関する視察、調査、研究並びに三絃音楽の紹介発表を依嘱され、増子夫人と共に渡欧。」と書いてあるが、この時のことは『歐洲視察談』というタイトルで文字になっており(さらに『日本橋倶樂部 報告會に於いて 杵屋佐吉』と横に印刷されている)その文章がより詳しく説明しているので以下に引用する(カッコ内は現代の書き方に私が勝手に直したものである。昔の日本語で書かれた文章が味わい深いので、なるべくそのまま引用した。)

尚、アムステルダム音楽院で修士論文を書くにあたり、七代目杵屋佐吉さんに四代目杵屋佐吉さんとラヴェルのことをご質問したところ、当方の唐突で厚かましい申し出にも関わらず、快く以下の貴重な資料を送って頂きました。お忙しいところご尽力いただき、本当にありがとうございました。

巴里には「ジルマルシェックス』と云ふ人があります。嘗て(かつて)日本へも來られたことがあります。私共を是非にと招待して呉れました。當日(当日)此人(この人)の衣服は日本の着物で、ご馳走も日本料理、室の装飾設備も日本風で全てが日本風で待遇せられたには驚きました。其席(その席)に居られた『ラベル』と云ふ人は有名な作曲家で、其方(その方)は巴里から二十哩(マイル)ほど距った(へだった、隔った?)所に住んで居る方でありますが、日本から来られた音樂家に是非逢ひたいと云ふので其晩(その晩)態々(わざわざ)出て來て呉れました。其人は自分も演奏するから、是非私共にも演奏して呉れとの注文でしたから、私共は其席で『吾妻八景』と『蝶』を演じました。其人は自身の作曲された『悲しき鳥』「ジルマル」氏は『甘色の髪毛の娘』と『パックの踊り』を演奏されました。私が歸朝後(帰国後)或る西洋音樂に精通されて居る人此話(この話)をしましたら、それは大變(大変)宜いことをした、『ラベル』と云ふ人は彼の國では大變偉い人ださうです。私共が此人と交換演奏をした事を喜んで呉れました。

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ラヴェルが交換演奏会をしたいと申し出たのも面白い事実だが、その席でラヴェルが自身の作品『鏡』から『悲しき鳥』を選んで演奏したことも興味深い。

ジルマルシェックスの演奏した『亜麻色の髪の乙女』と『パックの踊り』はドビュッシーの前奏曲集第1巻のものだろう。

さて、杵屋佐吉さんが演奏した『吾妻八景』と『蝶』だが、私は長唄に関しては殆ど何も知らないため、YouTubeで検索をかけてみたが『蝶』という題名の音源は見当たらなかった。(2021年2月21日追記:七代目杵屋佐吉さんのご子息、三代目杵屋佐喜さんがTwitter上で『蝶は佐吉本人の作品で、唄のない三味線だけの三絃主奏楽のため、おそらく当時独奏で聴かせたのではないかと思います』と書かれております。)

下に『吾妻八景』の演奏の動画を貼っておくが、これが果たして四代目杵屋佐吉さんが演奏したものと同じ曲なのかはわからない...

四代目杵屋佐吉さんとの交換演奏会があった頃のラヴェルは50歳で、その生涯を終える12年前であった。『パリから20マイル離れた家』というのはLe Belvédèreのことで、シリーズ6回目ではその家の中の浮世絵コレクションに触れている。そこに越してきてから50歳の当時で4年が経つことになる。

日本の音楽を聴く、という経験がどのくらい後のラヴェルの作曲活動に影響したのであろうか。交換演奏会の後、ラヴェルが死ぬ1937年までの間に作曲された曲のリストを以下に貼ってみた。カッコ内は作曲期間である。

ヴァイオリンソナタ2番(1923-27)
マダガスカル島民の歌(1925-26)
夢(1927)
ファンファーレ、合作バレエ『ジャンヌの扇』より(1927)
ボレロ(1928)
左手のためのピアノ協奏曲(1929-30)
ピアノ協奏曲 in G Major (1929-31)
ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ(1932-33)
オラトリオ『モルジャーヌ』、スケッチのみ(1932)

このリストをパッと見た感じでは、ジャズの影響を受けていそうなピアノ協奏曲(両手・左手のため共に)や、スペインの香りがするボレロ、異国趣味はマダガスカル島民の歌に現れ...と、あまり日本風な曲は見当たらない。ラヴェルは1928年にアメリカに行きジャズの洗礼を受けているので、そちらの経験の方が余程、作風に影響を与えたように見受けられる。

1925年頃の交換演奏会で、日本の音楽を生で聴いたことにより彼のインスピレーションが仮に刺激されていたとしても、彼がそれをどの程度自身の作曲に活かそうとしたかはわからないし、そもそも日本の音楽を聴いて、「あら世の中こんな音楽もあるのね。ふーん。」で終わった可能性もある。因みにラヴェルは1927年頃から軽度の記憶障害や言語症に悩まされていたが、1932年、パリでタクシーに乗っているときに交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していった。薩摩の言うように、ラヴェルは日本の長唄が好きで、日本のことをよく知っていたのなら、自分の近しい友人である薩摩の故郷、そしてジルマルシェックスも訪れた日本に、健康状態が許せばいつか行ってみたい、くらいには考えていたかもしれない。

14歳のラヴェル少年は日本の音楽を聴いたことがあった?

さて、交換演奏会の頃には50歳だったラヴェルだが、遡ること36年前、彼が14歳だった頃に開催された1889年のパリ万博でラヴェル少年が日本の音楽を聴いていたかもしれない、という話をしよう。

ロジャー・ニコルスの本『ラヴェル(改定新版)』内の年譜によると、ラヴェルは1889年にパリ万博に行き、『ロシアと東方の音楽』を聴いたらしい。この1889年のパリ万博は、ドビュッシーがインドネシアのガムラン音楽を聴いて虜になった、あのパリ万博である。ガムランの他に、日本の古い歌、中国のマーチ、ペルシャの歌、エジプトのベリーダンス、そしてルーマニアの踊りなどが万博で演奏されたようだ。演奏された『日本の古い歌』だが、これはBenedictusという人の1889年に出版された楽譜Les Musiques Bizzares a l'Exposition(直訳:万博での変な音楽)によると、"Harou same"という曲であると思われる。

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ラヴェルは少年時代にひょっとしたらパリ万博で、この"Harou same"(春雨?)を耳にしたかもしれない。もしそんなことが本当にあったとしても、この経験が後の彼の作品にどの程度影響を与えたのかは、記録が出てこないので全くわからない。しかし、多感な青春時代に(日本を含むかもしれない)様々な国の音楽をパリ万博で聴いたという事実は、後に形成されるラヴェルの異国趣味に多少貢献したと考えることもできるだろう。

結論(ラヴェルと日本シリーズの結論)

このラヴェルと日本シリーズは歴史的事実の発見に重きを置いているので、信頼できる情報源からの情報が出てこない限りハッキリとした結論が出ず、「かもしれない」「○○だろう」という筆者の推測(=曖昧な表現)が多くなりがちである。今回も、『ラヴェルは日本の音楽に興味があった』『ラヴェルは日本の音楽を聴いたことがあった』という歴史的事実を紹介することはできたが、その先は全て推測なので、読者の方で「だからどうなの!ラヴェルの作曲に影響したの?」とイライラした方がいらっしゃるかもしれない。しかし、私は信条として、証拠が薄いところからは推測で物を話さないということを、とりわけこのラヴェル研究では掲げている。今後、新たな証拠が出てこない限りは、現時点では「ラヴェルのこの曲はこれこれこうだから日本の影響を受けている」とは言い切れないのである。

けれども、こうして研究の軌跡をネット上に発表することにより、まずはより多くのラヴェルファンの皆さんに歴史的事実を知って頂きたいと願っている。ラヴェルの音楽が大好きな日本人の皆さんが、ラヴェルと日本の意外な接点に心を躍らせ、ワクワクしながら文献を漁っていた修論制作中の私のように、このシリーズを読んで頂けたなら本望である。そして、今後誰かが同じことを研究することがあれば、事実をベースにした研究を行ってもらいたいと私は願っているし、このシリーズがその多少の助けになれば幸いである。私が継続するのが一番良いのだろうけれど、今のところ英語で読める文献は殆ど全て当たったと思うので、後は『フランス語が全くできない私がフランス語の資料をどう読むか』という難題を解決しない限り、先に進まないと考えている。どこかの大学の博士課程に入って継続できたら一番良いのだろうとは思うが...とりあえず、修論で発表した証拠の殆どはこのシリーズ内で取り上げたし、他にも私には興味のあることが沢山あるので、ラヴェルと日本シリーズは一旦ここで終了とさせて頂く。

特別コーナー:私のお気に入りのラヴェル作品、ピアノ協奏曲ト長調、そしてラヴェルの作風について雑談

ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調は、私もオランダで6年程前にコンクールを受けた時、ファイナル用に練習していたこともあり思い入れが深い。(結局各部門別のセミファイナルの1位しかファイナルに行けない為、セミファイナルで3位だった私はオケと弾かず仕舞だった。)

ミケランジェリの演奏を選んだのは、彼の手が綺麗だからである。1楽章の出だしから妖精が踊っているみたいな手の動きで、ピアニストとラヴェルの(両手の)ピアノ協奏曲の話をすると、皆必ず「ミケランジェリの、見た?」と言う。これは正に、映像だからこそ二倍楽しめる演奏の聴き方だろう。

私の師匠、ブロンズ教授がジュネーブで、かのリパッティと友人でもあったルイ・ヒルトブラン氏の元で勉強していた頃、なんとラヴェルの弟子でもあったペルルミュテールにラヴェルのピアノ協奏曲を5回もレッスンしてもらう機会があったそうだ。ペルルミュテールにオケパートを弾いてもらいながら、若い頃の教授はピアノを弾いたらしい(羨ましい...。)さて、その時使った楽譜を昔見せてもらったのだが、一楽章のこの部分(上の動画だと4分34秒あたりから)にペルルミュテールが「天国の名において、速く弾かないこと!!」と書いていたことを覚えている。(写真の楽譜は私のものです)因みにこの部分、ミケランジェリは微動だにせずテンポをキープしている。

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2楽章を聴くとき、私は下に貼ったオディロン・ルドンの絵のように目を瞑りながら聴く。人と一緒に鑑賞するよりかは、1人で部屋に籠り、自分と向き合いながら浸るのがこの曲を一番楽しめる聴き方であると思う。いつか友達がこんなことを言っていた。

「この2楽章を聴いているとね、ああ私、人間に産まれてきて良かった、って思うの。私も辛いことたくさんあるけど、ラヴェルも色んな辛いことを経験して、それでこの2楽章がこんなに美しくなったんだな、って。泣いていいよ、って言われているみたいな曲じゃない?」

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3楽章は全体的におもちゃ箱をひっくり返したみたいな感じの曲である。底抜けに明るいし、ラヴェル独特のユーモアが散りばめられている。Misch-Masch(ごた混ぜ)なのにどこか整然としている奇妙な感じは、彼の家そのものである。

20分16秒からは、ゴジラのテーマを思い起こさせる。これはゴジラのテーマを手掛けた作曲家の伊福部昭さんが、ラヴェルの大ファンだったのでオマージュであろう、とこちらの記事で紹介されていた。大多数の日本人は、ラヴェルのピアノ協奏曲より先にゴジラのテーマを聴いて育つと思うので、どうしてもここの部分では心の中で「ゴジラ・ゴジラ」と歌うのをやめられない、という人も多いのではないか。

21分38秒からのピアノのパッセージだが、これと同じものをファゴットがピアノの後に繰り返す。3楽章全体を速めのテンポで弾いてしまい、さらに終わりに向けてどんどんテンポを上げていくと、この辺りからだんだんファゴット奏者が苦しくなってしまう。実際、アルゲリッチなんかは案の定「わたしゃ後に続くオケなんて気にしないわ!」って感じでいきなり爆速で弾いていたりする。(20分27秒から)

テンポを爆上げしたせいで、その後のファゴットがかなり頼りなくなってしまった悪い例である。これではあまりにこのファゴット奏者が可哀想である...大体アルゲリッチという人は、ピアノ協奏曲をこれ見よがしにぶっ飛ばして、まるでオケが遅れそうになるのを楽しんでいるかのようなサディスティックなところがあるピアニストである。彼女はわがままで、気まぐれで、それでいて魅力的で、まるでネコみたいな演奏をするので、信徒が多いのもまあ頷ける。

アルゲリッチの話はさておき、このピアノ協奏曲は同時期に作曲された左手のためのピアノ協奏曲と対照的に、ラヴェルの明るいサイドが全面的に出されている。彼の作品は、闇堕ちしたキャラクターが出てきそうなラ・ヴァルスや、左手のためのピアノ協奏曲などダークサイドの魔力(?)に支配されている曲と、ピアノ協奏曲や子供と魔法の一部の曲のように、躁鬱病の躁状態のようなパワーに満ち溢れている曲とで差が激しい。晩年の傑作といえばボレロも挙げられるが、執拗に同じリズムを10分以上ひたすら繰り返す執着心も、作曲以外のところで反映されてしまえばただの精神病患者である。ヴァイオリンソナタも同じ頃の傑作だが、2楽章のブルースではまるで「ピアノとヴァイオリンは同じ種類の楽器じゃないし、分かり合えないんだ。だからこの2つは平行線上を歩むしかない。」とでも言わんばかりに、両者に真逆のキャラを同時に演じさせ続けるという奇妙な難行を成し遂げている。ラヴェルの音楽は聴けば聴くほど魅了されるし、同時に掴みどころがないことを悟らされるのである。

ラヴェルと日本シリーズ

①導入編

②ラヴェルの友人、D.E.アンゲルブレシュト 

③ラヴェルの友人、ストラヴィンスキー 

④ラヴェルの友人、モーリス・ドラージュ 

⑤ラヴェルと3つのFoxtrot 

⑥ラヴェルの家の日本画コレクション 

⑦ラヴェルの聴いた日本の音楽