ドイツ・ロマン主義の誕生と歴史
我々は日常的に『ロマン派の音楽』という言葉を使い、ある一定の時代に生きた作曲家の作品のことをそう呼んでいる。ロマン派の音楽にはロマン主義の思想や傾向が表れているのでそういう名前なのだが、そもそものところ一体ロマン主義とは何だろうか。どのような考え方の元に生まれ、結果的に何をもたらしたのだろうか。音楽でロマン主義と言うとドイツやオーストリアの作曲家が多く思い浮かぶが(私の場合)、何かドイツ語圏に住んでいることが関係しているのだろうか。
今回の記事では、ロマン主義が歴史の中でどのように誕生し、音楽に反映されていったかを、楽曲分析以外にも歴史的背景や心理学を折り込み多角的に論じてみようと思う。歴史や哲学を学ぶことは、今の世界が今後どのような方向に向かっていくかを予想し、その困難に立ち向かう糧になると私は考えている。ロマン主義の生まれた背景を探ることで、いつか何らかの形で未来の芸術史に貢献できたら私の本望である。
(補足:余りにも大きなトピックなので今回はドイツ・オーストリアに焦点を絞ったのですが、それでも全ては網羅できませんでした。ライトな内容であることをどうかご容赦ください。そして私はピアニスト兼ピアノ教師であり、音楽理論家でも歴史家でも心理学者でもないので、雑な説明や勉強不足のところもどうか大目に見ていただければ幸いです。)
目次
ロマン主義の発生とその考え方
ベートーヴェンとシューベルトを比較して見る、ロマン派の音楽の特徴
シューベルトの時代の検閲とロマン主義
ドイツ人の国民意識、ヴォータンの元型とロマン主義
まとめ
終わりに
ロマン主義の発生とその考え方
芸術におけるある一つの主義や運動は、それまでの芸術界を支配していた他の思想や運動に反発して起ることが殆どである。古典・古代の文化を復興しようとしたルネサンスは暗黒時代である中世への反発であったし、劇的な流動性や過剰な装飾を重視したバロック芸術は調和や均整の取れたルネサンス芸術への反発であった。ロマン主義も18世紀の合理主義的で理性偏重の啓蒙思想に反発して生まれたと言えるだろう。
同時に、ロマン主義が起きた時代はフランス革命、産業革命、ナポレオンの栄華と衰退、ウィーン会議などが起こり、その後も国民意識の高まりによる近代国家の形成がされたりと、ヨーロッパは激動の時代であった。歴史に関しては後にも詳しく述べるが、このめちゃくちゃな時代を生き延びるために人々は現実逃避(=ロマン主義)を求めていたとも考えられることができる。いつの世も芸術は時代を映すのである。
ロマン主義は18世紀後半のドイツで起った『疾風怒濤』という文学における運動から始まった。『古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、理性に対する感情の優越を主張』したこの運動は、ゲーテやシラーにより進められ、後にはノヴァーリスやグリム兄弟などのドイツロマン主義の文学を開花させる。以下の言葉は初期ロマン主義者の代表の1人とも言える詩人、ノヴァーリス(1772-1801)のものである。ロマン主義者の物の見方をよく言い表していると思ったので引用した。
The world must be romanticized. In this way one will find its original meaning once again. Whenever I give the common a higher meaning, the usual a mysterious aspect, the familiar the dignity of the unknown, the finite and infinite appearance, in this way I romanticize it.
世界はロマン化されなければいけない。そうすることで、人は世界の本来の意味を再び見出す。私が平凡なものに高等な意味を、普通のものに神秘的な外見を、知られているものには知られていないものの威厳を、有限のものに無限の見かけを与えれば、それらをロマン化することになる。
『この「ロマン化」という言葉は、いわばヴェールを掛ける作用とイメージすればよい。そのヴェールは様々な事象に掛けられるが、しかしそれは「隠す」ためではなく、その背後にあるものを予感させ、見えなかったものの存在性を知らせてくれる。ただしその存在を見えるようにさせてくれるわけではない』
『私たちは眼に見えない無制約の存在を求めているが、しかし見つかるのはただの事物にすぎない。しかし、そのようにして制約された事物しか見えないのだと悟ることで、眼に見えない存在の捜し方がおぼろげながらでも分かり、非日常の視覚の働かせ方に思い至ることができるのである。それが「ロマン化」という知的な作用であり、 ノヴァーリスがヴェールに託した魔術なのである。』
加藤博子博士がこのように書いている通り、物事を目だけで見るのではなく心でも見て、さらに目で見えないものへの想像力を働かせることが、ロマン主義の一つの核を成す考え、と言えるのではないか。ロマンチックという言葉はしばしば「現実逃避」という言葉を想起させるが、それもこのように考えると理解できる。それにしても、絵画の世界ではロマン主義の後すぐに写実主義が台頭するあたり、先にも述べた『反発』の動きがちゃんと起っていて興味深い。
ノヴァーリスと同じ時代に生きた画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(1774-1840)の絵画もロマン主義の考え方を非常によく反映していると思うので、ここで少し見てみよう。自然の神秘を感じる美しい風景画でも彼は有名だが、ここでは主に鑑賞者に背を向けている人物が描かれている作品を取り上げる。
これらの絵画に見られる人物たちは何故こちらに背を向けているのだろうか。これは私が鑑賞して感じた個人の意見だが、彼らは現実を直視せず『ロマン化された世界』の方を向き、遥か彼方にある、彼らの理想の世界の方へ旅立とうとしている(もしくは意識は既に旅立っている)のではないか。ドイツロマン主義を語る上で外せない言葉に、wandern(彷徨う、徘徊する)そしてFernweh(これまでに行ったことのない場所やどこか遠い場所へ行くことを欲する状態)というものがある。フリードリヒの絵画の登場人物たちが、どこか心ここにあらずという状態に見えるのは、この「まだ見ぬ場所に行ってみたい」「あても無く彷徨いたい」という現実逃避の欲求の現れではなかろうか。
この他にも、ロマン主義者は夜、森、暗闇、伝説や神話なども好んで作品の題材に用いた。例えばシューマンのリーダークライスop.39の題名をざっと見ても、In der Fremde(異邦にて)、Waldesgespräch(森の対話)、Mondnacht(月の夜)、Schöne Fremde(美しき異郷)、Auf einer Burg(古城にて)、Im Walde(たそがれ)、Frühlingsnacht(春の夜)…とまるでロマン主義スターターセットかのように、見事にロマン主義の特徴が表れている。上記の太字の言葉たちは、後にユングの思想と結びつけ、ドイツ人の集合的意識とロマン主義について説明をするので是非覚えておいて欲しい。
さて、芸術界の新しい運動の波は少し遅れて音楽界に到達することが多いのだが、音楽におけるロマン主義もその1つである。ロマン派の音楽というとシューベルトから、というのが通説だが、殆ど時代の被っているベートーヴェン(1770-1827)とシューベルト(1797-1828)、何がそこまで違うのだろうか。
ベートーヴェンとシューベルトを比較して見る、ロマン派の音楽の特徴
「皆さんはロマン派の音楽がどう古典派の音楽と決定的に違うかを説明できますか?」
これはアムステルダム音楽院の学士3年目に履修した『ロマン派の音楽の分析』という授業で先生が私たちに投げかけた質問だ。音楽を生業にしている人なら和声学はある程度勉強するので、クラスでも「(ロマン派の音楽は古典派に比べて)和声が複雑になった」「フレーズが長くなった」「半音階の多用」などの意見が上がったが、先生の説明が個人的には一番しっくりきたので以下にて説明しようと思う。
ここに2つのピアノ曲がある。片方はベートーヴェンが1806年に作曲した『創作主題による32の変奏曲』、もう片方はシューベルトが1828年に作曲した『ピアノソナタ19番』である。
ベートーヴェンの変奏曲の主題と、シューベルトのピアノソナタ19番の冒頭部分は驚く程似ている。リズム、調性、そして右手のメロディーの音(下の楽譜の画像にオレンジと黄緑色で表記)などが共通点として挙げられる。しかしこの2曲の間には決定的な違いがあり、それがロマン派の音楽の性格を顕著に表しているのである。
*ここからは専門的な音楽用語が幾つか出てきます。楽曲分析の知識が無いよ、という方は、少し下にある「楽曲分析についての知識が無い方向け」のところを代わりに読んでください。筆者の最大の努力で、専門用語をあまり使わない説明を試みました。
まずはベートーヴェンの方だが、上記の楽譜に赤色で示してある通り、和声進行は
c: Ⅰ→Ⅴ→(F:Ⅴ⁷)→Ⅳ→ドイツの6→Ⅰ→Ⅳ→Ⅴ→Ⅰ、となり、テーマ最後の完全終止まで8小節かかっている。これがシューベルトだと、
c: Ⅰ→Ⅱ⁷→(F:Ⅴ⁷)→Ⅳ→ドイツの6→Ⅰと6小節目まで殆どベートーヴェンの方と同じ和声進行をしていくのだが、7-11小節の間はドミナントに居座っている。そしてやっと12小節目で頂点(ベートーヴェンで言うところの6小節目の2つめの和音、右手のラ♭)に辿り着いたと思ったら、ベートーヴェンのようにⅣを使わず、シューベルトはA♭Majorらしき音楽を始める。12-18小節はずっとA♭のペダルポイント上で音楽を展開、やっと19小節目でc minorに戻り、20-21小節の和音はベートーヴェンの7-8小節と同じくⅤ→Ⅰで終わっている。
多少わかりやすくするために、ベートーヴェンの楽譜の方には各和音の上に黒丸の数字を書き、シューベルトの方の楽譜には、対応する和音に同じ黒丸の数字を書いておいた。黒丸を見てもわかる通り、シューベルトの方は❻の後から❽までかなりの時間をかけていることがわかる。これを上手く説明した画像があるのでこちらも参照されたい。
さて、つらつら上に書いてきたものをまとめると、つまりはベートーヴェンは8小節かけて完全終止に持って行ったものを、シューベルトは色んな寄り道をして21小節もかけて終止まで持って行ったということである。ベートーヴェンの方は単純明快な和声進行で直ぐ解決するのに対し、シューベルトは意図的に和声の解決を遅らせている。解決を先延ばしにし、色んな転調をすることで、文字通り和声は彷徨う。それはまるで終わりの見えない旅を延々と続けるかのよう...この和声的にも現実逃避(終止逃避?)をすることこそがロマン派の音楽の性格の核を成し、無駄無く綺麗にまとまった古典派の音楽との違いである、と冒頭の授業の先生はおっしゃっていた。なるほど、マーラーやブルックナー、ワーグナーらロマン派が熟成した頃の音楽はロマンチック且つ長大だが、次から次へと展開していくメロディーと和声は『解決することを先延ばしにしている』と納得いく。以下、楽曲分析についての知識が無い方向けの説明を挟んで続きます。
(楽曲分析についての知識が無い方向け)
ある曲の構成を説明するのに、我々音楽家は和音を使ってどこがどうなっているのかを分析します。どの和音がどんな働きをするのかは決まっており、どこにどんな種類の和音が使われているかによって「ここから曲の雰囲気が変わるな」「ここはちょっと緊張感があるな」「ここはやっと家に帰ってきたみたいなホッとした感じだ」などの、音楽を聴いていると感じることの説明ができます。和音の並び方、調(ルールに沿った音の並び方のこと。複数あります。悲しい音楽、楽しい音楽等はどの調を使うかによって決まります)、拍子(123で数えるか、1234で数えるか、みたいなやつです)が同じ又は似ている音楽は、少し似て聴こえたりします。例に挙げているベートーヴェンの作品と、シューベルトの作品の冒頭部分はどちらも和音の並び方が似ていて、調と拍子は全く同じなので、「あれ、なんか似てない?」というように聴こえるわけです。
和音の並び方ですが、シューベルトは途中までベートーヴェンと殆ど同じです。色々ごちゃごちゃと楽譜の画像には書いてありますが、黒丸の数字だけ見てみてください。ベートーヴェンの和音と同じ和音が使われているところは、シューベルトの楽譜にも同じ番号の黒丸の数字で表しました。シューベルトの楽譜の1段目は❶から❻までの殆どの黒丸があるのですが、その後の2段目、3段目、4段目の最後まで黒丸は見当たりません。4段目の最後と、5段目の最初に黒丸の数字❽❾がやっと出てきます。つまり、シューベルトはベートーヴェンがたった1段(8小節、小節というのは楽譜に書いてある区切り線から区切り線までのことです)かかったものを、なんと4段近く(21小節)かけていることになります。
さて、❽→❾の和音の働きですが、❽が緊張を表し❾が終わりや解決を表します。❾は家に帰ってきたみたいな感じの響きがする、安心感のある和音です。シューベルトはこの❽→❾の部分に辿り着くまでに、他の和音を使ったり、はたまた違う調に行ったりして、寄り道ながら家(❾)に帰ってくるので、ベートーヴェンに比べて家に帰ってくるまでに時間がかかっています。この寄り道という行為は、今回例に挙げたベートーヴェンの曲や古典派の音楽(ハイドン・モーツァルトの作品等)にはあまり見られません。古典派の音楽は、無駄に色んなことをせずスッと家に帰ってくるので単純明快に聴こえる、と言えるでしょう。これがロマン派の音楽になると、シューベルトのように色んなところにお邪魔したり、はたまた自分の家に帰らずに、他の人の家に居座ってそのまま住み着いたりします。❾には終わりや解決の意味もあると書きましたが、つまりロマン派の音楽はとにかく解決を先延ばしにし、ふらふら色んなところに出回りたい、という性格があるということです。ロマン派になると長い曲が増えるのもこの性格に起因するのかもしれません。マーラーやブルックナー、ワーグナーらの音楽は延々と続きますし、これもロマン派特有の「解決を先延ばしにして色々寄り道する」という性格が表れているわけです。以上、なるべく簡単に、専門用語を使わずに頑張って説明したつもりです...
ロマン派の音楽が誰のどの作品から始まったかは私にはわからないし、そのことについて議論するのはナンセンスだと思う。上記の2曲は、曲の構成が似ているのに明快な違いがあり、それが古典派とロマン派の異なる2つの様式を体現しているので説明に用いたまでで、何もシューベルトのc minorのピアノソナタからがロマン派の幕開けです、と言いたいわけではないことは是非注意していただきたい。
シューベルトの時代の検閲とロマン主義
シューベルトと言えば厳しい検閲の時代を生き抜いた作曲家、というイメージが強く私の中にある。以前のブログにも書いたのだが、彼の生きた時代の検閲は本当に酷く、さらに時代そのものが暗澹としていた。当時のウィーンは市民の精神衛生も最悪で、シューベルトの兄のイグナーツ(1785-1844)は以下のように手紙に書いている。
最近のことだが、ここ(ウィーン)では恐ろしいほど自殺が多い。人々はまるであの世の天国へ一直線に飛び込むことができるとでも確信しているとしか思えない。
先にも述べた通り、18世紀後半から19世前半の丁度ロマン主義が起った頃のヨーロッパは政治が大きく変化した激動の時代だった。ヨーゼフ二世が政治に参加するようになってから一旦は緩くなった出版物の検閲も、1792年にフランツ二世が皇帝になると再び強化され、これによりこの時代の文化人たちは大変な苦労を強いられることになる。まずはザッと、当時のウィーンとナポレオンの戦いを見て時代背景を把握していくことにしよう。
シューベルトが生まれたのは1797年で、フランス革命の最中(1789-99年)、ウィーンで義勇軍が招集された翌年であり、つまりナポレオン率いるフランスと神聖ローマ帝国(オーストリア)がバチバチやっていた頃である。シューベルトが8歳の頃、1805年にウィーンはナポレオン軍に占領される(アウステルリッツの戦い)。これによりフランツ二世は皇帝の座を退き、神聖ローマ帝国は解体する。その3年後にシューベルトは神学校に入学、丁度この頃対ナポレオン意識も国民の間で募っていった。神学校でのシューベルトの友人らは学生義勇軍に加わったとも伝えられている。
1812年のロシア遠征に失敗したナポレオンは、1813年のライプチヒの戦いでヨーロッパ諸国連合軍に敗北する。ヨーロッパ中を荒らしまくったナポレオンだが、やっと失脚したのである。余談だが、ナポレオンの戦勝率は93%(38戦中35勝)らしい。当時の(陸の)ヨーロッパの国々は相当コテンパンにやられていた訳だ。
パリからフランツ一世(オーストリア皇帝として一世を名乗っているがフランツ二世と同一人物)の凱旋の時、シューベルトの父親は家の前に祝福の横断幕を掲げていたくらい喜んでいたようだし、詩人・音楽家たちもナポレオン失脚の歓喜の作品を残している。このころには17歳になっていたシューベルトも《ドイツ人の勝利に Auf dem Sieg der Deutschen, D81, 88》や《パリのヨーロッパ解放軍 Die Befreier Europans in Paris D104》を作曲している。
しかし1814年にはメッテルニヒの主導でウィーン会議が開催され、さらにウィーン体制ができ、ウィーンのいたるところにスパイや密告者が溢れた。検閲はより厳しくなり、発言の自由が制限される時代になってしまう。一度自由の味を知ってしまった人々が、再び暗黒時代にそう容易く戻れるわけもなかろう。1820年にはシューベルトの友人のクリソストームス・ゼンも政府を馬鹿にしたメモが発見されたことにより逮捕されてしまい、彼の集会に参加していたシューベルト自身も警察の取り調べを受けることになる。そしてウィーン体制でメッテルニヒにより検閲制度が強化されたのは、勿論ナポレオン以前の専制君主制度を温存したかったからという保守的な動機からであり、この流れもまた自由主義への『反発』で起きたと言えるのである。
検閲が一瞬弱まっていたヨーゼフ二世の時代に自由に音楽活動ができたモーツァルトも、既に有名人としてある程度の自由があったベートーヴェンも、18世紀の検閲の被害者ではあるのだが、シューベルトはウィーン会議後の最も検閲の厳しかった時期のウィーンで作曲活動をしている。このブログのこの章の内容は、石多正男先生の『検閲の時代 シューベルトを中心に(ポリフォーン10, 1992)』という素晴らしい記事を参考にして書いているのだが、石多先生は記事中で、検閲の『影響を最も強く受けたのはシューベルトであったと思われる』と書いている。シューベルトが作品を出版する際には、まずは清書譜を出版社に渡し、それを出版社が検閲に提出して許可をもらってから出版していたというのだ。それも検閲官の個人の見解により、どのような内容が宗教・国家・道徳にとって有害かが判断されていたので基準も曖昧だったらしい。ドイツ・オーストリア諸国内ではウィーンが最も検閲が厳しかったようで、シューベルトの友人の画家のシュヴィントは彼の作品のさばき口を探すためにウィーンを去ったくらいなのである。
事実、シューベルトの作品も検閲の被害に遭っている。代表的なものを挙げると、例えば未完のオペラ《フォン・グライフィエン伯爵 Der Graf von Gleichen D918》は台本に重婚を奨めるような箇所や卑猥な箇所があるとして上演禁止になり、台本作者のバウエンフェルトは日記に「台本が検閲によって禁止された。シューベルトはそれでも作曲しようとしている」と記していたようだ。《ドイツミサ曲 Deutsche Messe D872》もウィーン大司教教区省の検閲記録に「許可。但し公の教会使用は禁止」とあるそうだ。有名な歌曲の鱒も、シューバルトの詩の原文を一部を省略することで、検閲の目を逃れようとシューベルトが考えていたことが伺える。(私の過去ブログより)
さて、ここまでシューベルトの生きた、即ち音楽に於けるロマン主義が起った頃の時代背景と検閲についてを見てきたが、これがどのようにロマン主義と繋がってくるのだろうか。石多先生は以下のように述べている。
シューベルト以後、ウィーンの音楽家たちはロマン派と呼ばれる時代に入っていく。ロマン派の芸術とは一言で言うなら、現実逃避である。現在、昼、事実を嫌い、遠い国、過去、夢、夜などに逃げようとする。形式も和声も古典的な単純明快な形式美から離れ、複雑に曖昧になっていく。ウィーンの音楽は停滞する。ワルツで生きるしかなくなる。その原因が、私には1815年から48年までのいわゆる三月革命前時代の、不自由で抑圧された暗い世の中にあると思えるのである。
ロマン主義が起ったのは、何も啓蒙主義への反発だけが理由ではなさそうだ。当時の人たちにとってロマン主義は、混乱の政治が続き、自由が制限され、暗鬱とした生きにくい時代を乗り越えるための一つの策、もしくは逃げ道であったのかもしれない。先にも述べた通り、いつの世も芸術は時代を映すのである。
ドイツ人の国民意識、ヴォータンの元型とロマン主義
ここまでドイツ・オーストリアにおけるロマン主義の誕生とその考え方、そしてロマン主義の考え方がどのように音楽に表れ、さらにはロマン主義が起こった歴史の流れを見てきたが、そもそものところ、何故ロマン派の芸術家にこんなにドイツ人(ドイツ語圏の人間の意味でこの語を用いる)が多いのだろうか。ドイツ人である、もしくはゲルマン民族であることが何かしらロマン主義に傾倒するという作用を与えたりするのだろうか。
ドイツという国は長い間統一されず、長らくヨーロッパではフランスやイギリスと違い後進国のように扱われてきた。やっと統一され国民意識が芽生えたと思ったら二度に渡る大戦で滅茶苦茶にされてしまったせいで、今日あまり積極的に『ドイツ人らしさ』といったものが語られることは無い。寧ろ、ドイツ人の我が夫曰く「ドイツ人という国民意識を持たないように教育されてきた。歴史の授業は石器時代から始まり、次はプロイセン、第一次世界大戦、でもメインはヒトラーと第二次世界大戦。そして後は延々と、自分たちがいかに悪いことをしたのかを叩きこまれる。」だそうで、現代のドイツ人がドイツ人とは何かについて考えることはあまり無いようである。
ドイツ人の中で自分たちがドイツ人であるという国民意識が広く一般的に芽生えたのは、私の考える限り19世紀末からなのではないかと思う。普仏戦争後の、ザクセンもバイエルンも事実上組み込まれたドイツ帝国が誕生した頃、そしてロマン派の音楽が熟れ、そろそろ限界を迎えようとしている頃のことである。高まった民族意識はブラームスやワーグナーの音楽にも表れている。鉄血政策でブイブイ言わせ、ドイツ統一を成し遂げたビスマルクはこの両方の天才作曲家に支持されていた。ワーグナーの著作『ベートーヴェン』ではプロイセンがセダンの戦い(普仏戦争)で勝利したことを、崇高で堅実なドイツ精神とキリスト教の(フランスに対する)勝利、と捉えている。普仏戦争の勝利にあたりワーグナーは『皇帝行進曲』を作曲し、ルター作のコラール《神は堅き砦》を用いているし、ブラームスに至っては普仏戦争の終結前に勝手にプロイセンの勝利を確信し《勝利の歌》を作曲している。これにもルター派のコラール《いざすべての神に感謝を》が用いられているのである。そしてこの2人の天才はどちらもベートーヴェンを敬愛していたことは言うまでもない。ワーグナーにとってベートーヴェンとキリスト教、そしてプロイセンの勝利は同列のものであったように、プロイセンにおけるルター派ナショナリズムは19世紀末のドイツで支持され、結果ベートーヴェンはドイツ帝国の精神的英雄としてビスマルクと共に神格化されていく。この時代に愛国心が芽生えたのは勿論上記2人の作曲家のみならず、他の作曲家、そして言うまでも無く多くのドイツ国民の間に起こったことである。
さて、ここまでは各々が自覚している『ドイツ人である』という意識が歴史のどの時点でより広く一般的になっていったかについてザックリ書いた。ここからは、個人の認識を超えた『集合的無意識』がどのようにドイツロマン主義に作用したかもしれないか、ということについて書いていく。
意識には『自分で認識している心の動きや状態』の他にも『集合的無意識』というものもあるとスイスの心理学者・精神科医のユングは考えた。集合的無意識とは、『個人を超えた集団や民族の無意識に普遍的に在り、作用する意識』とでも説明しようか。これは個人の経験によって得るものではなく、生まれつき備わっているものだそうだ。そしてその集合的無意識が作り出すのが『元型(ア―キタイプ)』である。元型は人の心に古代から伝えられてきたイメージで、例えば女性的な体の曲線を表現した土偶や、子供を宿してお腹が膨らんでいる形の土偶を見ると、例えそれが古代の遺跡から出てきたものであっても私たちは瞬時に「命を産み出す母親」と認識する。私たち人類は普遍的に、共通したイメージを共有しているのである。ユングはこの元型を用いて、ヴォータンという論文の中でヒトラーのナチズムと、それに熱狂するドイツ人を説明しようと試みた。
ヴォータンとはゲルマン民族の神話に登場する神のことである。ヴォータンが北欧神話のオーディンと完全に同一の存在かどうかまでは私はわからないので(ゲルマン民族が長いこと統一国家を持たなかったことや、キリスト教の影響でゲルマン神話は完全な形で残っておらず、点在していることも考慮すると、一概にオーディン=ヴォータンとは言い切れないと私は考えた)、以下ヴォータンという名はユングの指すヴォータンという存在であると定義する。ヴォータンについてユングは次のように書いている。
絶えず動き回り彷徨う神ヴォータンは、あちらこちらで争いをかき乱し、魔術をも使う。キリスト教により悪魔とされてからは、失われていく地方の伝説の中だけで、嵐の夜にさっと現れる鬼火のように、従者を率いた幽霊のような狩人として生きるのみであった。中世では絶えず動き回り彷徨う神という役割はアハスエルス、彷徨えるユダヤ人(ユダヤ人という意ではなく、キリスト教の伝説上の人物。キリストの言葉により、最後の審判の日まで死ぬことが許されない人物)に取って代わられた。私たちがいつも無意識の精神の内容を他の人々の中に見出すのと同じように、キリストに認められなかった放浪者というモチーフはユダヤ人と同じであると見なされた。いずれにせよ、反ユダヤ主義の偶然とヴォータンの再登場は心理学的に巧妙で、言及に値するだろう。(私が訳したのでおかしいところがあったらすみません。日本語訳はアマゾンで購入できるようです。)
ヴォータンの性格を表す語には、獰猛な戦士、嵐、放浪者、魔術師、狂乱、詩人、死神などが挙げられる。その獰猛な性格からしばしばディオニュソスと混同されるとし、例えばニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』に登場する予言者ツァラトゥストラは、同時に魔術師であり、暴風でもあったことから、ツァラトゥストラはディオニュソスと解釈するより、ヴォータンであると考えた方が正しいとユングは言っている。確かにニーチェのイメージする暴風はヴォータンの性格をよく表していると思う。以下、『ツァラトゥストラはかく語りき』からヴォータンが伺える部分を引用する。
そしてわたしの精神をもって彼らの精神の呼吸を奪おう。わたしの未来はそれを欲する。まことに、ツァラトゥストラは全ての低地に向かう強い風である。彼は、彼の敵と唾を吐く全ての者に忠告する。「風に向かって唾を吐く者を戒めよ!」と。
(そしてツァラトゥストラが死の山城で墓の番人をしている夢の中で、物凄い力で彼が扉を開けようとした丁度その時、)
一陣のすさまじい風が吹いて、とびらをさっと開いた。風は、ひゅうひゅうと、耳をつんぐさぐように鋭く、黒い棺を私に投げつけた。
(この夢を解釈したツァラトゥストラの弟子はこのように言う。)
耳をつんぐさぐようにわめいて、死の城の門をはげしく開ける風、それがあなたではありませんか。生命の多彩な悪意と天使の戯画に満ちた棺、それこそがあなたではありませんか。
(日本語訳:ツァラトゥストラはこう語った 秋山英夫・高橋健二訳)
ユングはヴォータンこそゲルマン民族の魂の基本的特性であり、ゲルマン民族の特徴の比類なき化身である、と言った。ヴォータンはゲルマン民族の集合的無意識から現れた象徴的なイメージ(元型)で、その元型こそが彼らをナチズムに突き動かした、とするのがユングの考えである。ナチズムの台頭の説明には様々なものがあるだろうが、このような心理学的観点からの説明が私の中では一番しっくりきていたりする。ドイツ人の妻として、24時間365日ドイツ人と生活していると、我が夫の中にもヴォータンを垣間見ることがあるので余計に納得がいくのかもしれない。
さて、ヴォータンの性質としてユングが幾つか挙げてきたものの中には、勿論『獰猛な戦士』といった意味合いの激しい暴力性を表すものもあれば、『放浪者』のように、彷徨える神としての特徴もある。この『彷徨い放浪する』性格は、正しくドイツロマン主義の特徴の一つと一致するのではないか、と私は考えている。彷徨う、という概念そのものが、ゲルマン民族に太古の昔から共有されてきたイメージだったのかもしれない。ロマン主義の音楽では和声が終結せず彷徨い、絵画ではまだ見ぬ土地に行ってみたいという放浪することへの憧れが特徴として挙げられることを先に説明してきたが、このドイツロマン主義の特徴はゲルマン民族に普遍的に共有されているもので、ロマン主義が引き金になり彼らの中に潜むヴォータンがゆっくりと起き上がったのではないか。
そのロマン主義は疾風怒濤という運動により始まった、とこのブログの冒頭に書いたが、『疾風怒濤』(Strum und Drang)を直訳すると「嵐と衝動」となる。この語は元々クリンガーの劇Strum und Drangから来たものだが、その思想をよく表しているということで運動の名前として使われている。ここにも、全くの偶然かもしれないが『嵐』『衝動』という、ヴォータンの性質と一致する要素が出てくるのである。疾風怒濤の推進者でありドイツの反啓蒙主義の哲学者のヨハン・ゲオルグ・ハーマン(1730-1788)によると、疾風怒濤ではドイツ語を使って表現をすることも重要視され、それが『ドイツ人の固有の文化とドイツ語を守った』らしい。ロマン主義が熟成してきた頃にドイツ人の中で広く一般的な意味での国民意識が芽生えたであろうとこの章の冒頭に書いたが、『疾風怒濤』運動の時点で多少なりとも既にドイツナショナリズムの片鱗が見て取れる。そしてロマン主義者は無限の想像力で自然の神秘に近づき、またドイツの神話や伝説を蘇らせ芸術の主題に使った。それは結果的にドイツ人に民族としての自覚を促し、19世紀末のドイツナショナリズムへの下準備であったと考えることもできるだろう。
『疾風怒濤』、そしてロマン主義の誕生は、ドイツ人がドイツ人とは何であるか、彼らの魂はどこにあるのか、という問いへの答えを出そうとする過程のようにすら私は思うのである。(ドイツ人と書いたが、ドイツ語を話す人々の意味なので、民族的な集団としての意のゲルマン民族、という言葉を使った方が私の考えに近いかもしれない。)そしてその問いの答えが出ることは恐らく無いだろう。ブラームス・ワーグナーの時代に一度掴みかけたそれは、第一次世界大戦で潰され、その後歪曲した形でヒトラー政権へと引き継がれていく。そして戦後から今日までドイツ人はやはり自分たちのアイデンティティを見つけられず、見つけようとすることすら自分たちで禁じ、未だにドイツ人の魂はあてもなく彷徨い、どこにも落ち着けずにいるのである。再びヴォータンが目覚める日がいつかまた来るのだろうか。
まとめ
ロマン主義は啓蒙主義への反発として起きたが、混乱の政治が続き、自由が制限され、暗鬱とした生きにくい時代を乗り越えるための一つの策、もしくは逃げ道でもあった。
「まだ見ぬ場所に行ってみたい」「あても無く彷徨いたい」というロマン主義の現実逃避の欲求は音楽では和声に表れ、これはロマン派の音楽と古典派の音楽の大きな違いの一つでもある。
そして『彷徨う』という概念は、ゲルマン民族に太古の昔から共有されてきたヴォータンの元型から来たものであると考えることもできる。
ロマン主義の誕生は、ドイツ人がドイツ人とは何であるか、彼らの魂はどこにあるのか、という問いへの答えを出そうとする過程でもあったのかもしれない。
後書き
今回は色んな話を書いているうちに、文字通り私の思考が彷徨いました。あてもなくうろうろと、そりゃもうヴォータンもロマン主義者もビックリでしょう。私は自分の理解を深めるためにこれを書いたのですが、ここまで話が大きくなってくると(大きくしたのは私自身)、広く浅くなっていないか多少心配です。四半世紀しか生きていない、そして人生の90%近くをピアノを弾くことだけに費やしてきて、一般的な教養や知識が圧倒的に足りていない人間が吐き出した文章なので、大目に見ていただけると幸いです。色々足りてないのは本人も承知の上で書いているので、また新たに付け加えることがあればどんどん更新していく予定です。
参考文献
石多正男, 検閲の時代 シューベルトを中心に, ポリフォーン Vol.10, 1992
加藤博子, ノヴァーリスの幻想論, 2006
西原稔, クラシックでわかる世界史, アルテスパブリッシング, 2008
フリードリヒ・ニーチェ, 秋山英夫・高橋健二訳, ツァラトゥストラはこう語った, グーテンベルク, 2015
Carl Gustav Jung, Essay On Wotan trans. by Barbara Hannah in ESSAYS ON CONTEMPORARY EVENTS (London, 1947)