緊張との付き合い方
楽器を弾く人なら誰しも一度は必ず「緊張してしまい上手く弾けなかった」という本番を経験したことがあるのではないかと思います。私も以前は本番で毎回緊張してしまい、練習のように伸び伸びと弾けたことは一度もありませんでした。私にとって人前で弾くことは、いつも苦痛以外の何物でもありませんでした。しかし、現在はそれを克服し、大方の本番では自分を見失わずに楽しく、そしてたまに練習以上の演奏ができるようになりました。「いつも舞台で緊張をして演奏をダメにする自分には縁が無い」と思っていた国際コンクールの舞台でも、堂々と演奏することができました。
この文章は、以前の私のように本番で緊張してしまい、人前で演奏するのが楽しいと感じられない人に向けて書いています。少しでも皆さんの助けになれば幸いです。
目次
なぜ緊張するのか
良い緊張と悪い緊張
悪い緊張の克服方法 - 舞台慣れゲージを貯める
悪い緊張を良い緊張に変える方法9選
まとめ
なぜ緊張するのか
それは、人間が社会的な生き物だからです。私たちは、人前で失敗することにより他人からの信用を無くし、社会から孤立するのでは無いか、という不安を本能的に抱くのです。人は太古の昔から群れて暮らしていますし、他人からの評価や信用を下げないことはグループ内で生きていくのに必要不可欠なことです。ですので、あなたがサイコパスでは無い限りは、人前に出て何かをすることに関して多かれ少なかれ恐怖を感じ、緊張することは至って普通のことだと私は考えています。
さらに、音楽家が人前に出て演奏する=多くの視線が一斉に自分の方を向く、という状態を自然界に置き換えて考えてみましょう。これは「敵に囲まれており捕食される一歩手前」の状態であり、多くの場合は自分の生命の危機に直結しています。なので本来、人前で何かをするという行為は「生きるか死ぬか」レベルのストレスを伴ってもおかしくない、と考えることができるのではないでしょうか。
以上の2点からも分かる通り、人前に出て何かをするのはそもそも「緊張して当たり前」の行為です。理性を超越したレベルで身体が反応するからです。ですので、緊張を完全に「克服」するのは不可能だと私は考えています。しかし、緊張をある程度の範囲で自分でコントロールし、更に良い方向に利用する、ということは可能です。これについては後ほど詳しく説明します。
さて、本能的な反応が原因の緊張に加え、心理的なものが原因の緊張もあるでしょう。
私の家は厳しく、ピアノをやるなら結果を出す、そして勉学と両立させる、それができないならピアノはやめる、という決まりがありました。
しかし、「試験でいい成績を取らないといけない」「学生コンクールで予選は必ず突破しないといけない」「選抜演奏会には必ず良い成績で出ないといけない」などというプレッシャーを日々感じながら練習した結果、本番では弾いている間の記憶が無い程緊張し、練習のように弾けないことが殆どでした。本番後には毎回「プロの演奏家はこんな辛いことを日常的にやっていて、心が壊れないのか...」と不思議に思っていた程です。
そして、小さい頃からの「成績を出さなきゃ」というプレッシャーはその後留学して何年かしてからも続きました。もう、思うような成績が出なくてもピアノをやめる心配が無くなったのにも関わらず、です。当時は自分自身で「成績を出せない演奏には価値がない」と自分を呪っていたのですから、人前で弾くのが楽しい訳がありません。その後、少しずつ考え方を「自分の演奏をすれば良いんだ」という方向にシフトしていった結果、現在はそのようなプレッシャーからの呪縛は無くなりました。
私の体験は一例ですが、このような心理的なプレッシャーは緊張して思うように弾けなくなる原因の1つになり得るでしょう。自分の過去や環境をもう一度見つめて、何が「本番を楽しむ」ことを心理的にブロックしているのかを探し、改善することも緊張をコントロールし易くするのに必要なプロセスだと思います。
良い緊張と悪い緊張
では、緊張を全くしないと良い演奏ができるのでしょうか?私はそうだと思いません。
緊張には悪い緊張と、良い緊張があります。悪い緊張は集中力を分散させ、恐怖を増幅させます。私の体験のように、音楽以外のところで頭や心を悩ませていると悪い緊張に繋がります。他には、暗譜が飛ぶのでは無いか、失敗するのでは無いか、等の不安も悪い緊張に繋がります。
それでは良い緊張とは何でしょう。私の場合、良い緊張をしている時は不安が頭の片隅に置いてあり、集中力が普段では考えられないくらいに上がっています。ネガティブな考え(暗譜が飛んだら?、変なところで間違えたら?など)が頭をよぎっても、「大丈夫、何とかする!」という強い意欲が湧いてきます。これは普通の精神状態で感じることは無く、良い緊張をしている時だけこのようになります。
私が初めてオーケストラとピアノ協奏曲を演奏したのは、先日出場した国際コンクールのファイナルでのことでした。慣れない協奏曲の演奏+コンクールのプレッシャー+よく寝れなかった、という三重苦の中で、どのように弾き切ったのか私自身も今は不思議に思っていますが、演奏に没頭して集中し、恐怖を全て振り払い弾き切ることができたのは、良い緊張のお陰です。
この良い緊張は、頻繁に人前で弾く仕事をしている演奏家の方々が感じるタイプの緊張なのではないでしょうか。音楽仲間と話していると、多くの方が「緊張していないと集中して弾けない」と言います。彼らの言う「緊張」は「良い演奏をするんだという意欲」が恐怖に打ち勝ち、集中力が高まっている状態、つまり良い緊張のことを指しているのだと私は考えています。
初めに書いた通り、緊張をするのは人間として当たり前のことです。ただ、悪い緊張をすると音楽に集中できなくなり、楽しく演奏することが出来なくなってしまうのです。それでは、悪い緊張をある程度克服するためには何をすればいいのでしょうか。
悪い緊張の克服方法 - 舞台慣れゲージを貯める
中学生くらいの頃、家のピアノの調律師さんにこんな質問をしてみました。「調律師さんは色んなピアニストや演奏家をご存知だと思いますが、どうやって皆さん舞台でちゃんと弾いているのでしょうか?私はいつも緊張(悪い緊張)してしまい、舞台で全く実力が発揮できなくなってしまいます。」
調律師さんの回答は「慣れです」とのことでした。場数を踏んでいるうちに慣れてきて、ちゃんと弾けるようになるのだと。それを聞いた私は正直「これをすればすぐ治る、みたいな特効薬は無いのか...」とガッカリしたのを覚えています。
しかし、あれから10年近く経った今なら自信を持って、あの時の調律師さんの言葉は正しかったと言うことができます。私が悪い緊張を克服し、良い緊張の状態で舞台に出られるようになった理由は「慣れ」によるものが一番大きいと自分では考えています。
「舞台に慣れる」と言うと抽象的ですが、これは悪い緊張をせず、もしくはしていても自力で良い緊張に変え、椅子に座ったら(立って弾く人はお辞儀をしたら)スイッチが入り、最低でも練習室で弾いていたクオリティの演奏ができる、という状態のことです。ただ、この「慣れる」状態に行きつくまでどのくらいの時間がかかり、どのくらいの数の本番をこなす必要があるのかは、人それぞれ違うのです。
私は、音楽家には各自が持つ、目には見えない「舞台慣れゲージ」があると考えています。しかし、個々のゲージの経験値が貯まる速度は違うので、舞台に慣れて良い緊張の状態で演奏できるようになるまでに本番1回でゲージが貯まる人もいれば、私のように15年かけ何度もコンクールや試験、演奏会といった経験を積まないと貯まらない人もいる...という訳です。
私は桐朋や留学先で天才的な音楽家を間近に見てきましたが、彼らの「舞台慣れゲージ」は恐らく生まれた時から貯まっていたか、もしくは少ない回数の本番でゲージが貯まってしまい、後は殆ど毎回良い緊張をして演奏できている方が多い印象を受けます。そういう方々のことを日本語では「才能がある」と言うのかもしれませんが、彼らは英語で言うところのtalentedよりさらに格上のgifted(神から才を与えられた)方々なので、凡人がそのゲージを持つことは不可能だと思います。
そういう私ですが、舞台慣れゲージがある程度貯まってきた、と思えるようになるまで15年以上はかかりました。大学院1年目に校外でしたリサイタルの時に、初めて人前で弾くことを楽しいと感じるようになり、その年の年次試験の本番前には「この教授たち、いつか私がコンセルトヘボウで演奏会をできたとしてもきっとチケットを買って聴きに来てくれないのに、試験では皆仲良く並んで座って、黙って私の演奏を50分も聴いてくれるとか、なんか面白いな」くらいには考えていました。この頃はやっと自分の演奏を肯定できるようになり、「成績を出さなければ」というプレッシャーが薄れ「音楽を楽しもう、好きに弾こう」というように考え方が変化していました。それまでの私にとって観客は「自分の演奏の粗を探す怖い存在」だったのが、長年の勉強を経て、たくさんの舞台を踏み、自信が付いてきた結果「私の演奏を聴きに来てくれる、音楽を楽しみたい人」に変わったのです。
舞台慣れゲージがどれくらい貯まってきたかは目に見えません。なので、私が本番での演奏を楽しめるようになるまでは、いつも暗闇を手探りで歩いているようでしたし、その間は何度も「自分に演奏家は向いていないから諦めよう」と思っていました。しかし、暗闇から抜けた後、歩いてきた道を振り返って「散々失敗して嫌な思いをしたおかげで、経験値が貯まり今この景色が見えるのか」と思うと、ゲージを貯めるまでの時間や失敗は無駄では無かった、と強く思います。
大事なのは、自分の舞台慣れゲージが貯まるまで粘り強く場数を踏み続けるということです。しかし、ただ悪い緊張のまま、がむしゃらに本番に臨んでいても本番の後に受ける心理的ダメージが増幅するだけなので、悪い緊張を良い緊張に変える方法を以下に書いていきます。
悪い緊張を良い緊張に変える方法9選
①これでもか、というくらい練習する
練習不足の本番では、悪い緊張に繋がる「暗譜が怖い」や「変なところで飛んだら」などという余計な心配が募ります。
私が先日国際コンクールを受けた時は、自分の生徒を教えたり家事をしたり...と学生時代に比べると圧倒的に練習するための時間が確保し辛い状況でした。しかし、国際コンのような非日常的なイベント時には悪い緊張をし易いと予想し、仕事の後や休日に疲れた身体に鞭を打って練習していました。空き時間を全て練習に捧げると「これ以上練習するのは物理的に不可能だ」と思えてきましたし、コンクールの出番前は「あれだけ練習したから大丈夫」と自信が出ました。舞台で1人で弾く時、自分のことを信じてあげられるのは自分だけです。後悔の無いよう全力で取り組むことが大切です。
②初出しの曲は大きな舞台で弾かない
譜読みをして、レッスンを受けたり自分で研究して、やっと弾けるようになってきて…という状態の曲をいきなりコンクールや試験、演奏会で弾くのは避けましょう。まずは家族や友達に集まってもらい、少し緊張する場で弾いて成功する、という成功体験を最低でも2-3つは作りましょう。それから大きな本番に持って行くと、「あの時できたから大丈夫」と自信になり、良い緊張に繋がり易くなります。
③本番前に寝る
10-20分くらいがベストです。それ以上寝るとかえって頭が重くなります。移動中の車内や電車、楽屋のソファで寝るのでも良いですし、寝付けない時やソファが無い時は椅子を並べて横になるだけでもリラックスできます。それまで不安に押しつぶされそうで、ガタガタ震えていても、少しでも寝ると根拠のない自信が湧き上がり、全てが上手く行く気持ちになるのでこれはかなりお勧めです。
④本番前に練習しない・楽譜を見ない
不安を増幅させるからです。本番前に練習したり楽譜を見たりすることにより、悪い緊張をしている時は特に「あれ?ここってこんな指番号だった?」などと余計なことが頭を過り、それが無駄な恐怖に繋がります。もうここまで来たらやることは無い、後は体力を温存して臨むだけ、と切り替えることがとても大事です。
⑤自己暗示によりやる気スイッチをオンにする
楽屋でどれだけ緊張していても「(舞台の)椅子に座れば大丈夫、何故か弾ける」という謎の確信を持ち、自分に暗示をかけます。その時椅子に座って安心している自分を想像すると尚良いです。本番では、想像した通りに椅子に座り「これでもう大丈夫」と心の中で唱えます。すると良い音楽をしようというスイッチがオンになります。つまり、良い緊張の状態になるのです。
私は本番でも靴を履かずに弾いています。以前靴を履かずに本番で弾いてみたらとても自分らしく弾けたので、そこから「靴を履かなければ私は上手く弾ける」と自分に言い聞かせることにしたからです。椅子に座った後ペダルに足を置くと「いつもの練習の感じだ」と安心し、「弾くぞ」というスイッチが入ります。
上記の方法以外にも、スイッチを入れる方法は人それぞれ自分に合うもの、合わないものがあると思います。是非自分に合った方法を探してみてください。
⑥本番ポーチを作る
私が本番のある時に必ず楽譜と一緒にカバンに入れるもの、それが本番ポーチです。Twitterでも中身を紹介しました。
8耳栓(本番前に集中するため)
— サトミ|ピアニスト (@stm_pf) June 22, 2022
9ペパーミントオイルのサプリ(こちらもお腹対策で本番1時間前くらいに飲みます)
10伸縮性の高い薄めの手袋(フリース、指が動かしやすい)
11ペン
12くし
13携帯マウスウォッシュ
でも最近自信付いてきて、カイロと胃腸の調子整える系の出番が少なめです。うれし。
本番当日に楽屋に着いてから「あれ忘れた!」となると余計に緊張してしまうので、予め必要そうなものを全てまとめておくと良いです。
私は緊張するとお腹が壊れる・寒くなるので、胃腸の動きを整えるペパーミントオイルのサプリと、漢方薬は必須です。最近はあまり寒く感じないようになりましたが、ホッカイロや手袋もあると心が落ち着きます。冬にはこれに加えて、象印の魔法瓶にお湯を注ぎ持っていきます。お手洗いでお湯が出ない場合(教会とか)、紙のカップに注いでそれを飲むか、カップを手で包んで暖をとります。温かいものに触れていると、心も温かくなって前向きな気持ちになれます。更に耳栓は、上記の「本番前に寝る」の時に大活躍しますし、コンクールでは他人の練習を聞かずに済んだので重宝しました。
⑦冷水を浴びる
これは国際コンを受けていた期間に初めて取り入れました。実は、一次の前夜とオケとの最初のリハーサル前夜は緊張で一睡もできませんでした。朝になり「どうしよう、全く寝ていないのに弾けないよ...」となりながらシャワー室に向かい、とりあえず頭をシャキッとさせようと冷水を浴びてみました。すると鼓動が一気に速くなり、それが演奏前のドキドキと似ていて「これを数時間後に経験するのか」と自分を客観視することができました。そして、速くなった鼓動を抑えることや、水の冷たさに慣れることに集中していたら、煩悩が消えて「もうここまで来たらやるしかない」と迷いが決意に変わりました。滝に打たれる人の気持ちってこんな感じなのでしょうか。
⑧食事は本番2-3時間前に終わらせる
お腹が減るとネガティブ思考になるので悪い緊張に繋がります。食べないと燃やすものが無いので演奏中に疲れてしまい、実力を発揮できないこともあります。なので、どれだけ緊張で気持ちが悪くて食べる気がしなくても、食事は必ず摂ることが大切です。食べた直後は血糖値が上がり頭が上手く働きませんし、消火には体力も使うので、私は本番の2-3時間前に食事を終えるようにしています。言うまでも無いですが、カフェインを摂ると脳が興奮してしまうので、私は絶対に本番前には摂らないようにしています。
⑨音楽を楽しむ
これが一番大事です。いくら舞台に慣れても、悪い緊張をする時は誰でもしてしまうでしょう。それを良い緊張に変えるのに一番必要なのは、自分のやってきたことを信じて、音楽を楽しむ、ということです。臨む本番が、例え試験やコンクール、オーディションで、自分の演奏に人生が懸かっている場合でも、です。人に自分の音楽を審査される、という状況はそもそもかなり非音楽的だと私は思います。音楽はスポーツと違い、数字で測れる優劣がありません。ですので、「審査員の判断で私の演奏の価値は上がりも下がりもしない。結局、価値は聴く人にとって違ってくるので、それなら後は自分の信じる音楽をするのみだ。」と私は考えるようにしています。一度舞台に立ったら、後は「賽は投げられた」ので弾く以外の道はありません。どうせ弾くなら、折角聴いてくれている人たちの為にも、音楽に集中して一音一音を楽しんで演奏するべきなのです。
まとめ
マタイによる福音書6:34にはこのように書いてあります。
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
一秒先の暗譜を、一分先の演奏の出来を、または明日の本番がどうなるかを悩む必要は無いのです。今できることを精一杯し、演奏中であればその一瞬一瞬に集中する方が、まだ起きぬ失敗を案じるより余程良い演奏に繋がるのではないでしょうか。
演奏の出来は、心の持ちようで良くも悪くもなります。悪い緊張は心の不安定な状態から起こるものです。勿論、場数を踏み経験値を上げ、悪い緊張をある程度コントロールして良い緊張に変えることも大切ですが、舞台慣れゲージがある程度貯まってからも緊張との付き合いは続きます。この記事を読んだ皆さんが、少しでも緊張を上手に使い自分の味方にできるよう前向きに考えていただければ幸いです。