ベートーヴェンとシューベルトの歌曲から学ぶ反骨精神

TVは信用できない。ネットも信用できなくなってきた。検閲なんて昔の話だと思っていたのに、昨今のソーシャルメディアを見ているとそんなこともないと思わざるを得ない。

自由を求めて闘うのは何も現代人だけではない。TwitterもFacebookも無い200年前に生きていた作曲家や詩人だって同じである。

今回はクラシック音楽界の天才2人がどのようにしてその反骨精神を音楽に昇華させ、彼らなりに自由を掴み取ろうとしたのかを、特に政治的思想が垣間見える2つの歌曲を例に解説していこうと思う。

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悪魔に笑われる人間 - ベートーヴェンの『蚤の歌』

『蚤の歌』は歌曲集『6つの歌』Op.75の第3曲目で、ゲーテの詩が使われている。この曲は悪魔メフィストフェレスが、ある国の蚤が大好きな王様と、王様の周りの蚤に悩むが何もしない人間たちを嘲笑った歌である。日本語で『ベートーヴェン 蚤の歌 歌詞』等と検索しても、この詩の本当の意味は出てこない。寧ろ「本当に蚤がぴょんぴょん跳ねているような曲で面白いですねー」なんていう本質を突かない説明が出てくる。動画と共にドイツ語原文と日本語訳を下に載せておく。

Es war einmal ein König
Der hatt' einen großen Floh
Den liebt' er gar nicht wenig
Als wie seinen eig'nen Sohn.
Da rief er seinen Scheider,
Der Schneider kam heran;
"Da, miß dem Junker Kleider
Und miß ihm Hosen an!"

In Sammet und in Seide
War er nun angetan,
Hatte Bänder auf dem Kleide,
Hatt' auch ein Kreuz daran,
Und war sogleich Minister,
Und hatt einen großen Stern.
Da wurden seine Geschwister
Bei Hof auch große Herrn.

Und Herrn and Frau'n am Hofe,
Die waren sehr geplagt,
Die Königin und die Zofe
Gestochen und genagt,
Und durften sie nicht knicken,
Und weg sie jucken nicht,
Wir knicken und ersticken
Doch gleich, wenn einer sticht

昔あるところに王様がいて
大きなノミを飼っていた
その可愛がり方はたいそうなもので
まるで自分の息子のよう
お抱えの仕立屋を呼び付け
仕立屋がやってくると
「貴族の上着の寸法を測れ
それにズボンの寸法を測れ」と

ビロードと絹の布で
やつは奇麗に着飾った。
上着の上には帯を付け、
帯には勲章をぶらさげた。
ノミはたちまち大臣となり、
絶大な権力を手に入れた。
それでノミの仲間たちも
宮廷でみな、高い位に就いた。

宮廷の者たちは男も女もみな、
やつらに大いに悩まされ、
お妃や侍女たちも
刺されたり、かまれたりしたが、
誰もノミを潰すことは許されず、
痒みを掻くことすらできなかった。
俺達は潰したり、叩いたりできるけどね
痒いと思ったらいつでも好きな時に

この詩で出てくるノミがただの虫のノミで無いことは明らかである。これは生き物(民衆)から血(税金)を吸うことでしか生きられないのに、本当は無能で頭のからっぽな政治家をノミに例えているのである。王様が仕立て屋に服を作らせたのは、実際には役に立たず寧ろ血を吸うことで人々を苦しめるノミの正体を綺麗な服で隠し、あたかも立派な何かに見せようとするためだろう。そうやって権力を手に入れたノミたちは宮廷の人々を悩ます。

ここでメフィストフェレスは言う、「俺なら自分でノミを叩き潰せるのに」と。悪魔は、長いものに巻かれるだけで権力者にされるがままの、自分で立ち上がって状況を変えられない人々を笑っている。なぜおまえらはそんな簡単なこともできないのか、と。

この詩はゲーテのファウストからのものだが、ファウストではまずメフィストフェレスが酒場で人々に促されてこの歌を歌い出す。歌の終わりでは酒場の周りの人間もメフィストフェレスと一緒にこの詩の最後の2行を歌うので、訳が『俺たち』となっている。つまりこの部分を歌っているのは悪魔+酒場の人間である。

作曲家のベートーヴェンがこの詩を選んで作曲したのは何故か。恐らくこの詩を読んで、彼も共感するところがあったので、それを自分なりに人々に伝えたかったのではないか。ベートーヴェンは自由が抑圧された当時、彼の才能を存分に使いこの曲(や他の名作)を書き、彼なりにノミと闘おうとしていたのではないか。それと同時に、自分のために立ち上がれず何もできない人々を、メフィストフェレスのように笑っていたのかもしれない。

自由を求める魚 - シューベルトの『鱒』

皆に愛されるこの名曲だが、こちらもネットにある多くの解説文の『字面だけ見た解釈』を鵜呑みにしてはいけない。この詩の本来のメッセージは「若い女性たちよ、男に簡単に釣られるな」ではない。大体、詩や物語はいつも文面をそのまま受け取っては本来の意味が失われてしまうことは私の他の記事『シューベルト/ゲーテの『魔王』の魔王の正体は父親である理由』でも書いたと思う。
こちらも以下に動画とドイツ語本文、日本語訳を載せたので、曲を知っている人も知らない人も是非もう一度チェックしてみて欲しい。

Die Forelle
In einem Bächlein helle
Da schoß in froher Eil
Die launische Forelle
Vorüber wie ein Pfeil.
Ich stand an dem Gestade
Und sah in süßer Ruh
Des muntern Fischleins Bade
Im klaren Bächlein zu.

Ein Fischer mit der Rute
Wohl an dem Ufer stand,
Und sah's mit kaltem Blute,
Wie sich das Fischlein wand.
So lang dem Wasser Helle,
So dacht ich, nicht gebricht,
So fängt er die Forelle
Mit seiner Angel nicht.

Doch endlich ward dem Diebe
Die Zeit zu lang. Er macht
Das Bächlein tückisch trübe,
Und eh ich es gedacht,
So zuckte seine Rute,
Das Fischlein zappelt dran,
Und ich mit regem Blute
Sah die Betrog'ne an.


明るく澄んだ川で
元気よく身を翻しながら
気まぐれな鱒が
矢のように泳いでいた。
私は岸辺に立って
澄みきった川の中で
鱒たちが活発に泳ぐのを
よい気分で見ていた。

釣竿を手にした一人の釣り人が
岸辺に立って
魚の動き回る様子を
冷たく見ていた。
私は思った
川の水が澄みきっている限り、
釣り人の釣り針に
鱒がかかることはないだろう。

ところがその釣り人はとうとう
しびれを切らして卑怯にも
川をかきまわして濁らせた
私が考える暇もなく、
竿が引き込まれ
その先には鱒が暴れていた
そして私は腹を立てながら
罠に落ちた鱒を見つめていた

シューベルトは、この詩の作者シューバルトのオリジナルの詩にはある、以下の最後の部分を省略している。

Die ihr am goldenen Quelle
Der sicheren Jugend weilt,
Denkt doch an die Forelle,
Seht ihr Gefahr, so eilt!
Meist fehlt ihr nur aus Mangel
der Klugheit, Mädchen, seht
Verführer mit der Angel!
Sonst blutet ihr zu spät!

いつまでも続く
青春の黄金の泉のもとにいるあなたがた
鱒のことを考えなさい
危険に出会ったら落ち着いてはいられない。
あなた方にはたいてい用心深さが欠けている
娘たちよ、見なさい。
釣り針を持って誘惑する男達を!
さもないと後悔するぞ!

詩人シューバルトは政治活動家でもあり、その反骨精神からこの詩を書いた時は牢屋に入れられていた。当時の検閲は今のTwitterよりも酷く、シューバルトは最後のこの部分で「あくまでこの詩は若い女性たちに、男の人に簡単に引っかかるなよ、と伝えているだけです」とアピールしたかったのだろう。この詩に出てくる鱒とは、自由を求めていたのに捕まってしまったシューバルト自身のことである。シューベルトが最後の部分を省いたのは、恐らくシューバルトの本来のメッセージを汲み取り、彼の意見に共感し、検閲が無ければ要らなかったであろう最後の部分を自身の曲では省略することで、彼なりに自由を叫ぼうとしていたのではないか。

2つの歌曲と2人の作曲家の共通点、そして闘い方

この2人の他の作品の中にも政治的な意見が垣間見れるものがあると思う。今回はたまたま私が知っている2曲を取り上げたが、この2曲に共通するものとは何だろう。

1つ目は、根底にある『無力さ』である。『蚤の歌』では不満を持った人々は結局何も抵抗できずにいる。『鱒』は結局漁師に捕まえられてしまう。何かをしようとしても上手くいかないし、しかし抵抗しないのもまた惨め、結局人間は権力を前には無力であることを2曲とも再確認させてくれる。

しかし本当に我々は無力なのだろうか。悪魔に笑われっぱなしでいいのだろうか。ゲーテとシューバルトはその才能を使って、検閲の目も潜り抜けられるような、それでいて芸術性の高く人々を啓蒙する作品を発表してきた。ベートーヴェンやシューベルトといった偉大な作曲家たちは、音楽でそれを彼らなりに人々へ伝えようとした。2つ目の共通点は、彼らは何もせず蚤にされるがままになっている宮廷の人間たちとは違う、ということである。自分のできることを使って、自身のために立ち上がったのである。我々も彼らのように、自由を掴みたければ個々ができることを地道にやっていくしか無いのかもしれない。

脱線 - 政治的意見に毒された現代『アート』批判&芸術とは

しかし勿論、ベートーヴェンにしろシューベルトにしろ、彼らの作品がただの権力批判で終わらず作曲家の死後もずっと愛されている理由は、その芸術性の高さにあるはずだ。最近の一部の現代『アート』はやたらと作者の政治観を全面的に出してくるが、そういったものが今後何百年もの間人々に愛されるとは思えない。偉大な芸術には、国や言語やアイデンティティ、さらには政治的意見の違いまでを通り越して人々をまとめる力がある。それを理解せずに、ただ政治的意見を作品制作のモチベーションにするのは間違っていると私は信じている。芸術とは超越することである。何をどのように超越するか、などの私の芸術論についてはまた別の機会に書こうと思っているので、今は置いておこう。

結論

メディアの検閲や意見のコントロールはいつの時代もそこにある。人々が自由を求めて権力と闘うという社会の構図は今も昔も変わらない。昨今のソーシャルメディアの動向には頭を抱えるようなものもあり、どんどん我々の表現の自由は奪われている。いつかベートーヴェンやシューベルトが生きた時代のように、TVもネットも無かった時代の闘い方を強いられる日が来るかもしれない。そんな日が来ても、強く生きる為に私たちは先人が残したものから学ばなければいけない。歴史は武器になる。こんな闘い方があるんだ、という芸術家たちの例をここに挙げることによって、読んでいるあなたを少しでも勇気づけられたなら本望である。最後にゲーテの名言を引用しておこう。

A person who does not know the history of the last 3,000 years wanders in the darkness of ignorance, unable to make sense of the reality around him. (Goethe)

三千年の歴史から学ぶことを知らぬ者は、知ることもなく、闇の中にいよ、その日その日を生きると(ゲーテ)