演奏を聴いて感動するかしないかは、全て演奏者の実力によるもの?それとも聴衆の感性も必要?
両方だと思います。演奏者の実力が足りないから感動しない場合もあれば、質問者様の言うように、聴き手の感性が問題で感動しない場合もあるかと。
ただ、インタビューの演奏家の「演奏会で感動しないのは、演奏者の責任」という言葉に引っ掛かります。自分の演奏が良ければ聴き手は感動してくれる、という期待をしているわけですよね。自分の行動によって相手が自分の思い通りになることを前提に、物事を結論づけるのは違うのではないか、と私は思います。
さて、聴き手の感性が問題で感動しない場合もある、と先に書きました。でも、感性って何でしょう?
私は、感性は眼鏡のようなものだと思います。人によっては用途別に眼鏡を数本持っていたり、又は一本しか持っていない人もいるかもしれません。視力が変ると、過去には見えていたものが見えなくなったり、その逆もあるかもしれません。そして、自分に合ったメガネを掛けていない状態で、又は裸眼でいるとよく見えないので、良さに気がつかないこともあるでしょう。良さに気がつかないと、感動もできないのです。
たまたま観客の中に、私の音楽がよく見える眼鏡を持っている人々が居合わせたら、その人たちは私の演奏を聴いて感動してくれる可能性がある、という様に私は考えています。そして、「多くの人が感動する」演奏や作品は、多くの人が似たような眼鏡を持っているので「多くの人に見えやすい」からなのではないか、と思います。その逆も然りです。
ですので、演奏者が実力不足では無くても、聴き手がその演奏をよく見ることのできる『感性眼鏡』を持ち合わせていなければ、感動できないことは十分にあり得ます。しかし、ある種類の眼鏡を持っていないことは、必ずしも悪いことではありません。視力が悪くなる原因が、自分の行動に全て由来するわけでは無いことと同じです。また、時間が経つにつれて新しい眼鏡を獲得したり、または失うことも可能です。眼鏡のレンズに磨きがかかると、よりよく見えるようになることもあるでしょう。さらに、ある芸術家が生前には認められなかった場合でも、後の世にその芸術家の作品をよく見える眼鏡を持った人々が沢山現れる場合だってあります。
究極的には、演奏家は各々のベストを尽くし(つまり、その楽曲の良さを研究し、それが十分に伝わるように演奏し)、あとは聴衆が自分の芸術を見ることのできる眼鏡を持っていることを願うことしかできない、と私は考えます。因みに、この眼鏡理論でいくと、「演奏で感動させる」という姿勢は成立しません。奏者の考える「感動」をいくら聴衆に押し付けようとしたところで、それが見える眼鏡を持っていない人には何も見えないのですから。