演奏で「全部だす」とは?ショパンを伝えるのが演奏で、私を表現することではない?

ショパンはショパンを伝えるのが演奏、私を表現することではない、この考え方に私も賛成します。

ただ、「全部だす」と言うと、能動的に何らかの特定のアクションをしないといけないかのように聞こえます。私は、ショパンを弾く際に、最大限『自分の思う理想のショパンの音楽像』に近づける努力を行いながら、同時に『自分』が「にじみ出て」しまうことこそが、人間の演奏の面白さだと考えています。

整理していきましょう。

作曲家がいて、奏者がいて、聴衆がいて、と3段階ありますが(これを、作曲家の前に『イデア界があって』を付け足すと、4段階になるかもしれませんが…それはさておき)奏者は作曲家と聴衆の間に挟まれた位置にあります。奏者をメディア(媒介、表現の手段)と考えると、奏者には作曲家と聴衆を繋ぐ役割があり、奏者は即ち「作曲家の表現の手段」であることがわかりますね。なので、メディアである我々はあくまで「間に入って2つのものを繋ぐ」のが存在意義であり、「私自身を表現することが目的ではない」という考え方ができるのです。

しかし、例えばAIが過去の巨匠の演奏を集めて分析し、「(万人にウケやすいという意味での)完璧な」演奏でショパンのある曲を再現したとしても、そこには媒介としての演奏家の「ショパンを弾きたい」と「自分が出てしまう」という矛盾や葛藤は存在しませんよね。この、矛盾や葛藤こそが「個性」の正体だと私は思います。人間の演奏を人間らしくする要素です。

時事問題だって、(大体の場合は中立を謳う)メディアによって1つの情報が様々な角度から発信されますが、その時起用されるコメンテーターや、彼らが使う言葉によって、メディアごとに個性があるのと似ています。(これが良いのか悪いのかはさておき。)

個性は「出す」のではなく、「にじみ出る」くらいが丁度良いのです。すると「自分勝手な演奏」になりません。作曲家を超えてしまった演奏をする奏者は、どれだけ世間的に評価をされていても、私は二流だな、と感じてしまいます(←何を偉そうに!)役者でも、何を演じていても○○という役者にしか見えない人は、二流と言われますよね。それと同じです。

では、「にじみ出る」演奏をするにはどうしたらいいのか。質問者さんが一番整理すべきことは恐らく、質問者さんが「どうショパンの音楽を思い描いているのか」というところにあるのかもしれません。そこの解像度が低いと、そもそものベースになるショパン像が描かれていないので、色もにじみ出て来ません。

まずは、どんな音楽をしたいのかを細部に渡るまでハッキリさせます。作品の理想像を強く持つのです。この時、作曲家が自分の身近な人間に感じることのできるくらい、作曲家を知ることが役に立ったりします。作曲家を知る、というのは、作曲家の生涯を知る、作曲家の作品を知る、などが当てはまります。我々は、直接作曲家に助言を求められないので(現代音楽なら話は別かもしれませんが)、結局のところは自分で描いた作品の理想像が、どのくらい「作曲家が描いた理想像」と近いのかはわかりません。ただ、自分が描いた理想像を何度も何度もなぞるように練習をし、本番を重ねていくと、そのうちその曲が自分の血肉になった感覚が得られます…(ここらへんは私の体感なので、他の人がどう感じるのかは正直不明ですが。)弾きながら、自分に作曲家が乗り移って音を紡いでいるような錯覚が起きるまで、とにかく弾き込みます。ここまでくると、自分の描いた作品の理想像はしっかりとベースにあり、その上に媒介者としての「自分」は自然とにじみ出ています。さらに、他人が聴くと一見「全部でている」ように見えるのではないか、と私は思いました。

(今回、抽象的な話が多くてすみません。)