ピアニストは芸術家ですか?さとみさんは芸術をどのように定義されていますか?

まず、ピアニストは芸術家です。ピアニストは、作曲家が作った芸術作品(音楽)をピアニストという媒介を通して再現します。芸術作品は奏者という媒介を通しても、芸術作品であり続けます(物凄く下手なピアニストが作品の持つ芸術性を損なう演奏をした場合は別ですが。)よって、ピアニストは芸術家と言えるでしょう。

次に、芸術の定義は非常に難しく、本来私なんぞが大口を叩いていいことではありません。しかしここ(質問箱回答ページ)は私の小さな王国で、そこでは好き勝手に暴論を展開することを私が良しとしています。以下、私が考える芸術の定義について書いていきます。

前提として、私が以下「芸術」という語を用いる時には、西洋の価値観で言うところの芸術を意味します。東洋、または世界の他の部分の芸術観がどのようなものかまでは私にはわかりません。また、本来なら先行研究や他の人の書いた「芸術とは何か」的なものをある程度網羅し、さらに自分の意見を形成した上で、このようなことに意見をするべきだと私は思っていますが…人生は短いですし、この質問は今来たので、これも何かのタイミングだと割り切ることにします。これから書くことは、私が現時点で考えていることです。今後考え方が変わる可能性が十分あることを考慮して読んでください。

目次

  1. 芸術を「定義する」ことについて

  2. 芸術は、高度な技術を用いて人により作られる「人工物」

  3. 芸術は、アポロン的なものとディオニュソス的なものの対抗と融合

  4. 芸術は、役にたたないもの(?)

  5. 今回の結論


1.芸術を「定義する」ことについて

芸術が何かを定義しようとする、つまり、言葉を与えて説明を試みる。まず、この姿勢について考えてみましょう。

カミール・パーリアという私の好きなアメリカの大学教授がいるのですが、彼女は著書「性のペルソナ」でこう書いています。

名前と人格は西洋の形式探求の一部である。西洋は物体の個々のアイデンティティにこだわる。名づけることは知ることであり、知ることは支配することである。(中略)西洋人は見ることによって知る。私たちの文化の核心にあるのは知覚による諸関係であり、これが芸術への測り知れない寄与を生んだのである。私たちは自然の中を歩きながら、眼で見て、特定し、名前を付け、認識する。この認識こそが私たちの厄除け、つまり恐怖を払いのける御札である。

何か言葉で説明し難い概念がある時、我々がなんとか言葉を組み合わせて説明しようとすることは、至って(西洋的な観点から言えば)普通の姿勢なのかもしれません。芸術という、混沌としていて抽象的な概念を、論理的に言葉を用いて説明することで、「わからないもの」を「わかるもの」という認識に変えようとする。これにより、わからないものへの恐怖を拭おうとするわけです。

さて、言葉は西洋的思考の基盤であり、世界であり、神でもあります。創世記1章は以下のように始まります。

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。

「光あれ。」

こうして、光があった。

この後も、神は空を作る時、海と地を作る時に「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」などと言葉を発します。言葉を発し、混沌としていた世界に名前を与えていくことで、生物が住める環境を神は作ったということになります。

ヨハネの福音書の出だしも見てみましょう。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

最初の3文の説明ができる程、私はキリスト教を理解していませんが…如何に(西洋的な観点での)世界の創造に「言葉」が重要であるかが伺えると思います。西洋的なものの捉え方の基盤は、世界の創造から既に「言葉」が中心であるということです。

漠然とした考え―つまりカオス―に言葉を割り当てることで思考を整理し、概念をより明確に認識する。芸術が何かを定義しようとするのも、これと同じ作業です。しかし、そもそも芸術は定義され得るのでしょうか。

私は、何かわからないものに接した時に、いつも必ず言葉で説明する必要はないのではないか、と感じています。芸術もそうです。漠然と「これは凄い…」と感じる、それだけで十分ではないでしょうか。いくら芸術を言葉で定義をしようとしても、芸術の内容はそもそも言葉で表せないものです。(音楽も絵画も文学も、一語では表せない何かを表現している、という話は以前も質問箱の回答でしたと思います。)

あるものに、言葉を、理路整然とした説明を与えると、「自分のものにしてやった、これで理解したぞ」という快感を感じることがあると思います。先述のパーリア女史の言う通り、「知ることは支配すること」なのです。これは、実に西洋的なアプローチでの「わからないもの(とそれに対する恐怖)」への向き合い方です。しかし、芸術のように心に深く作用するものについては、もう少し精神的な―何か高次元のという意味での―向き合い方があっても良いのではないかと私は考えます。

人も芸術も、全てを知りわかってしまったら、魅力が無くなってしまうと思いませんか?私は、人でも作品でも、説明され得ない部分を見つけた時に、寧ろ喜びを感じます。それは、広大な砂浜に立ち海を眺めている時や、地面に寝転がって星空を見ている時の感覚に似ています。誰にも支配されないものに宿る、誰にも解き明かすことのできない神秘。芸術の定義が何かということも、解き明かされず、謎のまま私の前にただ在って欲しい、と私は思うのです。

と、最初に基本的なスタンスを表明したところで、以下、私の考えを述べていきます。あくまで質問は「さとみさんは芸術をどのように定義されていますか」ですので。

2.芸術は、高度な技術を用いて人により作られる「人工物」

ここからは、芸術を定義する試みを幾つかしてみましょう。辞書的な回答をすると、芸術とは高度な技術を用いて人により作られる「人工物」である、と言えるでしょう。Wikipediaにも、芸術の語源として以下の説明が書かれています。

ギリシャ語の「τέχνη téchni(テクニー)」やその訳語としてのラテン語の「ars(アルス)」、英語の「art(アート)」、フランス語の「art(アール)」、ドイツ語の「Kunst(クンスト)」などは、もともと単に「人工(のもの)」という意味の医術や土木工学などの広い分野を含む概念で、現在でいうところの「技術」にあたる。

ただ、芸術、というラベルを貼ってしまえば何でも「芸術」になり得る、という現代の考え方に私は賛同していません。これについては追々説明していきます。

さて、芸術の対義語は「自然」であると私は思っています。

自然は美しいです。ただ、自然の美しさは表面的で、一旦その表皮を剥がすと、人を殲滅させることのできる程の巨大な力があります。自然は私たちに恵を与えてくれると同時に、長い時間をかけて進歩してきた人類の文明や科学を以てしても支配のできない、恐怖の権化でもあるのです。私はたまに北海を見に散歩に出かけますが、一日本人としては海を見た時にただ「美しい」と手放しに思うことはできません。同じ海が、かつて形相を変えてたくさんの人々の命を奪ったのだと考えると、その恐怖は人間が抗えない宿命であるように感じ、身がすくみます。

人間は自然の中に規則を見つけ、手懐け、対抗し、生き残るために切磋琢磨してきました。この姿勢が今日の医療や科学の発展に寄与しているわけです。人間に空や海は作れないように、人間は自然の美を作ることができません。人が関与した時点で「人工物」になってしまうので、自然そのものの美しさを作ることはできないのです。ただ、その「人工物」の中で自然の美を模倣したり、対抗したりすることは可能です。

(メモ:江戸川乱歩のパノラマ島奇譚という小説に、以下のような文が出てきます。私の考え方と同じです。)

『彼の考えによれば、芸術というものは、見方によっては、自然に対する人間の反抗、あるがままに満足せず、それに人間各個の個性を附与したいという欲求の表れにほかならぬでありました。それ故に、例えば、音楽家は、あるがままの風の声、波の音、鳥獣の鳴声などにあき足らずして、彼等自身の音を創造しようと努力し、画家の仕事はモデルを単にあるがままに描きだすのではなくて、それを彼等自身の個性によって変改し美化することにあり、詩人は云うまでもなく、単なる事実の報道者、記録者ではないのであります。』

3.芸術は、アポロン的なものとディオニュソス的なものの対抗と融合

さて、西洋における「芸術」とは、アポロン的なものと、ディオニュソス的なものの対抗、そしてそれらの融合のことを指すと私は考えます。アポロンディオニュソスは共にギリシア神話の神です。

アポロン的なものとは、形式や秩序を重んじ、自然を克服し、超越しようとする力のことを意味します。対してディオニュソス的なものとは、克服され得ない衝動的な創造力であり、先述のパーリア女史の説明を借りれば「アポロンが逃げ出す冥界的現実であり、地下の力が盲滅法(めくらめっぽう)に砕き潰し、ゆっくりと時間をかけて吸い込む、暗黒と泥の世界」です。その二つの対立により、西洋の芸術、そして科学や美学は発展してきたのです(ここらへん、少しニーチェ的な考え方でしょうか。)

…それはまた人間性を奪う生物学や地理学の残忍性、ダーウィン的な荒廃と流血、不潔さと腐敗さであり、私たちが人間としてのアポロン的高潔さを保つためにはそれらを意識から締め出さねばならない。西洋の科学や美学は、そうした恐怖を、想像力にとって快い形式に作り替えようとする企てである。(性のペルソナ、カミーユ・パーリア)

私の中で芸術の定義の1つとして、「理性>感情であり、規則や形式を重んじ自然と対抗する=アポロン的」なものと、「感情>理性であり、自然に身を任せた陶酔状態=ディオニュソス的」なものが、人の持つ高度な技術により融合されたもの、ということが挙げられます。これが見られないものについて、私は「これは芸術である」とは言えません。例えば、トイレの便器を指して「これは芸術です」と誰かが言ったとしても、私にとっては芸術では無い、ということです。壁に貼られたバナナや、ホルマリン漬けにされた海洋生物なども、私の定義で言うと芸術ではないことになります。「誰でも作ることができるもの」を発想の転換や視点の変更によって、「芸術」と言うことは私にはできない、というわけです。そこに人間が獲得し得る最高の技術が注ぎ込まれていなければ、そしてアポロン的なものとディオニュソス的なものがせめぎ合いながらも共存していなければ、それは私にとっては芸術ではありません。

3.芸術は、役に立たないもの(?)

私にとっての芸術の定義は、これまで述べてきたことだけではありません。私は、芸術は全て役に立たないものでなければいけないと思っています。オスカー・ワイルドも「ドリアングレイの肖像」序文で以下のように書いています。

芸術とはみな、きわめて役に立たないものだ

All art is absolutely useless

― Oscar Wilde

因みに、この序文は「芸術家は美しいものを創造する。芸術に形を与え、その創造主を隠すのが芸術の意図である。」と始まります。すると、①美しいとは何か?②芸術家は美しいもの以外は創造しないのか?③芸術は美しくなければいけないのか?等という、複数の難問が生まれてしまうので、今回は最後の一文だけ取り上げることにします。

芸術は役に立たないものでなければいけない理由は、芸術は「言葉で表し得ないものを表現する」からです。芸術に何らかの、言葉で表現できるメッセージを持たせてしまうと、その途端にそれは芸術では無く、広告やプロパガンダに成り下がってしまいます。有用性のあるものになるからです。ある作品に思想や主義が全面的に押し出されてしまうと、それは私が考えるところでは芸術とは言えないのです。(この考え方は現代の色んな人を敵に回す発言かもしれませんが、ここはあくまで私個人の考えを、好き勝手に述べる場なので…)

目の前で病気で苦しむ人がいたとします。医者なら薬を出したり、治療をしたりしてその人の命を救うことができるかもしれません。でも、芸術家には何ができるでしょうか。命を救うための実践的なことは、特に何もできないでしょう。しかし、それが芸術家の仕事なのです。特に何か役に立つことをしないことこそが、芸術家を芸術家たらしめるのです。そこで「この人が病気になったのは社会がいけないから、社会をより良くするために私は自分の作品で云々…」等と言い、何かを作り始めたとしても、そうして出来上がったものは『特定のメッセージ性の高い何か』に過ぎません。それは、「言葉で表し得ないものを表現」していないからです。さらに、前項で述べてきたことからもかけ離れてしまいます。

しかし、芸術家に主義や思想があるのは当然のことです。何も、芸術家たるもの浮世とは完全に己を隔離して隠居せよ、等と言いたい訳ではありません。芸術家も1人の人間なので、程度の差はあれど、各々が世の中の色々なことに対しての意見を持ち合わせていることとは思います。ただ、それを全面的に作品に押し出してしまうと、それは形が違うだけで選挙演説やデモのプラカードと何ら変わりが無いのでは、と私は思うのです。

と、色々と書きましたが、私の考え方は正しく19世紀の芸術至上主義者のそれです。21世紀の資本主義社会には全く相容れないかと思います。そもそも、西洋の芸術には長らく、国家や国教のために奉仕するという因習的な役割もあったので、一概に「芸術は役にたたないもの」であるべきだと言い切ることが難しいのもまた事実…(ですが、ここでは私の理想論を書きました。)

(メモ: 先述のオスカー・ワイルドですが、彼の論評集「インテンションズ」では、私と全く異なる芸術と自然についての考えを書いているようです。20世紀の美学者、中井正一先生が「美学入門」の中でわかりやすく説明されているので、以下に引用します。

…その中に「芸術は決して自然の模倣ではない。むしろ、自然が芸術の模倣である。一体自然とは何であるか、自然はわれわれを産んだところの大いなる母親ではない、自然はわれわれの創ったものである。」というような言葉がある。

ワイルドがいうには、ロンドンは実に霧が深い、電車も止まり、馬車も止まる、この霧は、近代画家、例えばターナーのような画家がこれを描いて、初めて、この霧は風景として、人間の前にあらわれたのである。それまでは、霧の美を人々は見なかった、ただ困ったもんだと思っていた。ところが、画家に描かれて初めて、美しい霧として、ロンドンの霧が人間の前にあらわれたのである。だから、自然が芸術を模倣して、初めて自然の美というものになったのであると考えるのである。

私が先述した「芸術は自然の模倣」という考え方は、アリストテレスの芸術論的です。ワイルドは私と同様、芸術至上主義者ですが、彼は「自然の方を芸術という天上界に押し上げる必要がある」という考え方で、私のイデア論ベースの考え方とは違いますね…ここら辺の掘り下げはまたいつか。)

4.今回の結論

(西洋)芸術を定義する試みを幾つかしてみましたが、結論としては、無理です。芸術の内容が「言葉で表し得ないものの表現」だと私が考えている限り、芸術とは何かと言葉で表すことは非常に困難です。今回、色々と思索をしてみたつもりですが、それでもやはり私の論理には幾つも粗があり、「これこそが芸術の定義である」と皆さんに胸を張ってお伝えできることはありません。上記の私の考える芸術の定義(?)の全てに、徹底的に反論していく章を書き足そうかと数日悩んだほどです。

質問箱史上最も難しい質問のため、質問を頂いてから毎日考え込んでいました。回答が遅くなったこと、そしてこれに時間を費やし過ぎて他の回答が遅くなったこと、ここにお詫び申し上げますm(__)m


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